1
長雨が続きすっかり肌寒くなっていた。は衣替えしたばかりの長袖を伸ばしながら、季節がひとつ通り過ぎたんだな、とぼんやり考えながら学校の廊下を歩く。
は日直だったので書き終えた日誌を帰りしなに職員室へ届けに来ていたところだった。担任の「お前の日誌はおもろいなぁ、十コケシやろう! おうやろう!」という褒め言葉を適当に受け流してさっさと帰ろうとしたとき、奥の進路相談室からよく見知った人物が出てくることに気付いて足を止めた。
ド金髪は今日も阿呆みたいによく目立つ。どうせまた碌でもないことしたんやろ。
出てきたのはの幼馴染の忍足謙也だった。
謙也の後ろからこの夏で一段と頭が寂しくなった彼のクラス担任も出てくる。
察するに、叱られていたというような雰囲気ではなかったが、表情は二人とも珍しく固い。
担任がなにか励ますように謙也の背を叩き、謙也は頭を軽く下げてそれに応えた。
そのまま謙也はに気づくことなく職員室を後にした。
「どうかしたか? も日直の仕事終わったんやったら雨ヤバなるうちに早よ帰りいや」
まだ日暮れでもないのに外はすでに薄暗く、遠くの空では稲光が走る。
は小さく息を吐いてから、傘を広げて校舎を出た。
そして、そのまま謙也に追いつくことなくは自宅に到着した。
2
「、コレ謙也クン家に持ってったって」
その日の夜、が自宅のリビングで自堕落にすごしていると、夕食の皿洗いを終えた母に梨が入ったビニル袋を突きつけられた。
毎年山梨の親戚からダンボールいっぱいに送られてくるそれは家だけでは到底消費することができず、ご近所である忍足家にお裾分けすることが慣例化していた。
が「勉強してるから無理」と母に楯突けば、「ソファに転がってよう言うわ」と返される。
手には確かに英単語帳。まるっきり嘘というわけでもない。
「すぐそこやねんから行ってき。ついでに謙也くんに勉強見てもろうたらええんとちゃう?」
謙也くんは優秀やのにずっと一緒に育ったアンタはなんでそんなに……から始まるいつものアレだ。
延々そんなことを聞かされるのはごめんなので、「ハイハイ、行けばええんやろ」と玄関の端に脱ぎ捨てられていたサンダルを履いては逃げるように家から出た。
玄関を出た直後に小雨が降っていることに気がついたが、傘を取りに戻る程でもないと判断し、そのまま謙也の家までサンダルを掻き鳴らした。
徒歩三十秒。子供の頃は大股何歩で着けるか、謙也とよく競った道が小雨に濡れて黒光りしていた。
「あら、ちゃん。毎年おおきにね」
そういいながらおばちゃんが麦茶を持って来てくれた。
届け物をするだけのつもりだったのに、今日もなんやかんやで居座ってしまいそうだ。
忍足家は男兄弟という理由からか、幼い頃からはおばちゃんに可愛がってもらっていた。
「ほんまはね女の子がほしかったのよ。謙也たちには内緒よ」とか「ちゃんがお嫁に来てくれたら、おばちゃん嬉しいねんけどな」とか、今にして思えばどこまで本心なのかわからない呟きを聞いたのは一度や二度ではない。
「おばちゃん、謙也と翔太は?」
「翔太はまだ部活。謙也はたぶん、自分の部屋なんちゃうかな」
は視線を一瞬二階に上がる階段の方へ走らせてからよく冷えた麦茶に口をつけた。
「なんや、下で声する思おとったら、か」
しばらくすると、二階から謙也が降りてきた。
「ちゃん、今年もまた梨持ってきてくれたんよ」
「おお。ほんならそれ食いたい。腹減った」
まったく、と口では言いつつも、おばちゃんは梨を剥くために立ち上がる。
「何してたん?」
よっこらしょ、と自分のとなりに腰を下ろした謙也にが尋ねた。
「勉強や」と答えた謙也には「ふーん」とだけ返す。謙也がつけたテレビの音が笑い声をあげたので沈黙はかき消された。
ほどなくしてガラスの器に綺麗に盛られた梨が運ばれてくる。爽やかな甘い香りが上品だ。
謙也は器ごとひょいっとそれを受け取り、当然といったていでリビングから出ていこうとする。
「何? アンタ上で食べるん?」
「ええやんけ。別に」
「良おないわ。みんなで食べよ思おて二つも剥いてしもたやないの」
もう、とおばちゃんが拗ねても、謙也はとりあわずそのまま階段を上って自室へ戻ってしまった。
梨の皿を乗せていたお盆には小皿とフォークが乗ったままだったに気づいたおばちゃんが不貞腐れた顔でそれをに渡した。
「悪いんやけど、これ持ってったってくれる?」
最近私が部屋に入ろうとすると怒んねんあの子、とおばちゃんが本格的なため息を吐くので、は断りづらく、その申し出を引き受けた。
階段を上ると左手に二つ、奥に一つ、さらに右手に一つと扉が並ぶ。
それぞれ謙也の部屋、翔太の部屋、おじさんの部屋、それからトイレ。
は一番左の扉をコンッ、コンッ、コンッ、と続けざまに三度とノックして扉を開けた。
「お前、何べん言うたらわかんねん! コンコンのあとそない早く開けたらノックの意味ないやんけ!」
そうツッコまれることをわかっていたは気にせず、久しぶりに入る謙也の部屋を遠慮なしに見渡した。
案外片付いてからあんまり面白くない。思春期らしくエロ本の一つでも、と思ったがそれは本格的に探さないと出てきそうになかった。
ふと、勉強机の上に大きな白い封筒が置かれているのが目に止まる。封筒には進学高で有名な私立高校の名前。
たちは中学三年生だ。受験生なのだから、高校の資料らしきものが入った封筒が部屋にあったとしてもなんら不思議ではない。
けれど、それはの記憶が確かなら彼の第一志望の学校名ではなかったはずだ。
「……何してたん?」
シャク、と梨を齧っていた謙也が「ん?」と顔上げた。
謙也がフォークを使わず梨を手で食べていたのを見て、は持ってきた小皿とフォークを一つずつ謙也に渡した。
「せやから勉強や言うてるやん」
「ちゃうくて。放課後、職員室おったやろ?」
おう、と答えた謙也は食べかけの梨にフォークに突き刺してから、果汁で濡れた手をウエットティッシュで拭いていた。
そういうところが、とは思う。
フォークを差し出しといてなんなんだが、自分ならめんどくさがって手でそのまま食べ続けるだろうし、もしフォークを使ったとしても手は履いてるズボンかなんかで適当に拭くかもしれない。
もともとの性格の違いもあるが、それだけじゃない。
小さい頃から一緒だったけれど、こういう些細なところに差が出てくる。
住む世界が違う。なんて大袈裟にはとらえていないが、成長するにつれて、は謙也と自分の置かれている状況の違いをひしひしと感じることが多くなっていた。
例えば、将来についてのことだってそうだ。
「あぁ、それな。つーか、お前こそなんで職員室なんかおってん? なんかやらかしたんか?」
シャク。謙也が梨を齧りながら揶揄う。
今年の梨は夏に晴天が続き大きく美味しく育ったと梨を送ってくれた親戚の手紙に書いてあった。
夏が暑いと秋の果物は美味しく育つ。あの暑い夏があってこそのこの梨なのだ。そう思うとは途端にこの梨が憎らしくなる。
立ったままでいるに「なんや自分の分もフォーク持ってきといて食わへんのか?」と謙也が不思議顔で尋ねてもは聞き流した。
「……私は日直や。謙也こそ、なんや深刻そうに担任と話しとったやん」
「あー、進路のことでちょっとな」
シャク。
「俺、スポーツ推薦落ちてん。せやから、志望校どないすんねんっていう話をちょっとな」
シャク。シャク。
「まぁ、これで俺も本腰入れて勉強せなあかんくなったっちゅー話やな」
謙也は変わらなぬ調子で梨を食べ続けていた。
シャク。シャク。シャク。
歯切れのいい音が静かな部屋に響くたび、梨の香りが飛散する。
「……なぁ、それってテニスは、」
が言いきらぬうちに、「まあオトンとの約束やったからな」と謙也が言った。
謙也は忍足家の長男で、家は開業医。彼が作文に書く将来の夢は昔から「お医者さん」。
三年生になったばかりの頃、何気なく進路の話になったとき、謙也はこう言っていた。
スポーツ推薦が通ればテニスを続けてもいいが、もしダメだった場合は勉強に専念しろ。父からはそう言われていると。
「まぁ、なんや堅苦しい気いもするけど、また新しいことに挑戦すると思えば、それはそれで手応えあって楽しいやろ」
あっけらかんと笑う謙也の表情が、の記憶の中にあるあの日の謙也とリンクした。
今年の全国大会準決勝。
謙也は自分から千歳と財前に「おつかれさん!」と声をかけに行っていた。
頭を下げようとした千歳には「何やっとんねん」と笑いながらツッコミを入れ、一発無言で回し蹴りを決めてきた財前には「ごめんな」と逆に謝っていた。財前はそれでも不貞腐れたような顔をしていたが、それも長くは続かず最後には三人それぞれすっきりとしたような表情で光差すスタジアムの出口へと消えていった。
まるで青春映画のワンシーンだ、とは思った。
幾多の試練を乗り越えた若者が絆を確かめ再び各々の道を歩み出す、そしてそれを見届けた観客は感動を味わうハッピーエンドストーリー。
けれど、の心には響かない。
これが選手とマネージャーの違いなんだろうか。
できることなら自分だって彼らのように笑いたいけれど、到底そんな風にはできそうになかった。泣くことさえ今は難しい。
「ごめんな」
立ち尽くしているといつの間にかすぐ後ろにいた白石の消え入りそうな呟きが聞こえた。
なんで私に謝んねん、白石は悪くないやろ。しかも謝るなら私にじゃなくて謙也にやろ。はそう言ってやりたかったが、そんなこと謙也は絶対に望んでいないので呑み込んだ。
そんなを見て、白石はもう一回「ごめん」と呟く。
こうして、四天宝寺中学テニス部としての最後の夏は幕を閉じた。
3
シャク。
「食わへんのやったら、最後の梨貰うで」と言ってフォークを残り一つの梨に突き刺したあと、の方を見上げた謙也は固まった。
「え、おまっ、ちょ、え、な、なに? なんで泣とんねん!」
が突然怒りの形相で手当たり次第に物を投げつけはじめたので、謙也はなにがなんだかわからずも「なにしとんねん!」と言いながらとりあえず逃げまくるしかない。
そのうちにが投げた枕が部屋の照明のスイッチに偶然当たり、パチンと弾けるような音とともに部屋の明かりがすべて消えた。
「最後の梨そんな食いたかったんか?」
「ちゃうわ阿呆!」
が投げた何かが謙也にぶつかった気配がした。バサっと音を立てて転がったそれはおそらく辞書の類だろう。
照明は落ちても窓から入る仄かな明かりはあった。真っ暗闇というわけではない。
相手の表情も、落ちている本のタイトルも、目を凝らせばわかる。
わからないのは心内だ。
なんで、という言葉が謙也の胸にもそれからの胸にもこだましていた。
謙也はきっと今でも出番を千歳に譲ったことをこれっぽっちも後悔していない。そして、もうテニスができないことにも納得している。
それに無性に腹を立てているのはだけだ。だけが子供のように駄々をこねて過ぎ去ったことに執着している。
気候が変わっても、着ているものが変わっても、秋の果実が美味しくても、ひとりがまだあの夏に置き去りにされてずっと動けないままでいた。
謙也が試合するところが見たかった。謙也が勝つところが見たかった。謙也がこれから先も大好きなテニスをしているところを見たかった。
謙也の思いやりで救われた人もいるけれど、謙也を想う人間はそれでは救われない。
謙也の幸せでしか救われない。
なのに、を置いて彼は先へ行く。
新しい季節を受け入れて、前を向いている。
それが悔しくて、寂しくて、虚しい。
はゆるゆるとその場に座り込んだ。
甘い梨の香りがする。虫の音が聞こえる。窓から入る涼しい風が頬を撫でる。
もう秋だ。
おいていかんで
の内なる悲鳴は音にならず、涙になった。
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