「恥ずかしくないの? あんな勝ち方して」

 県大会後、マネージャーが見当たらないと思ったら、対戦相手だった他校の選手にコート裏の死角で絡まれていた。
 卑怯な奴らは弱者を目ざとく見つける。彼らは立海テニス部にとってマネージャーであるがそれだと思ったのだろう。

「ねぇ、無視? あんな勝ち方して、恥ずかしくないのかって聞いてんだけど」

 ネチネチと言い寄る男は、今大会二回戦で赤也に負けた奴だ。
 あんな勝ち方。……おそらく赤也のことだろう。まぁ、俺のことかもしれないが。
同じことを考えたであろうその現場を一緒に目撃していた赤也とバチリと目が合った。

「勝てればなにしてもいいのかよ」

 の行く手を阻むように立ちはだかったもうひとりの男が威圧的にそう畳み掛ける。こっちは俺に負けた男だ。
はその壁をすり抜けようとするが、体格差もありなかなかうまくいかない。
なにも答えないに苛ついたのか、ひとりがの腕を掴んだ。
赤也がバッと身体を動かして飛び出そうとしたので止める。

「ちょっ、仁王先輩! なんで止めるんスかっ!」

 なんでもクソもない。
今飛び出せば、確実に暴れるであろう赤也は立海テニス部にとって危険分子だ。
暴力沙汰なんて起こして出場停止なんて食らったらどうなる。真田の鉄拳制裁では済まされない。
そんなことだって望んでいない。
俺の意見を肯定するように、は男の手を自分で押し退けた。

「ルール違反はしてません。立海ウチが勝ったのは、立海ウチの選手が“強い”からです」

 の凛とした声が相手の意表をつく。
まさか反撃を喰らうとは思ってもみなかったのだろう。
どちらの男も、そして俺も赤也も一瞬黙る。
それくらい今のには静かな迫力があった。
 このタイミングで負けを認めれば良いものの、雑魚は去り際も知らない。
女に言い負かされて今更ただ逃げることもできず、間抜けなタイミングで男のひとりが逆上した。
ラケットを握っている腕がめがけて振り下ろされようとした瞬間、運良く真田が現れ「なにをやっとる!」とその場で一喝。
ビビった奴らは慌てて走り出す。「待たんかーっ!」という命令に従うはずもなく、あっという間にその後姿は見えなくなった。
 まぁ、とりあえずこれで一件落着だ。
フゥと一息を吐けば、そこでやっと自分が後ろから柳に肩を掴まれていることに気づいた。
これで赤也のことはもう責められない。
 帰りのバスで赤也は「先輩のおかげでスッキリしたっス! さすが先輩、強いっスね!」との勇姿を無邪気に讃えた。
もそれに笑顔で応えて、いつも通り反省会を終え何事もなかったかのようにその日は解散した。
 だから、その事件がきっかけだったのかは定かではない。
本当はもっと前からその兆しはあったのに、自分たちのことにかまけて見落としていただけなのかもしれない。
関東でも梅雨が明けたと報じられ、やっと憂鬱な室内練習から解放されると選手たちが伸び伸びとコートに向かう中、はいつまでも独り雨空の下に取り残されたように俯くことが多くなった。


 ホームルームが終わり、部活が始まるまでのほんの少しの隙間の時間。
賑わう廊下を人の流れに逆らいながら進んで行く。
途中、運悪く柳に見つかるも、「遅れるなよ」という忠告のみでそれ以上のお咎めはなかった。
これが真田であればそうもいかないので、まぁ不幸中の幸いだ。
「屋上か?」という柳の問いに「さぁのう?」ととぼけて返せば、「頼むぞ」と託される。
 なにが「頼むぞ」だ。
 内心そう思わないでもないが、だからと言ってこの役目を誰かに譲るつもりはないので、後ろ手をヒラリと降って終わらせた。

 蝶番が錆びかけた重い鋼の扉を押し開け、そこに一歩足を踏み入れる。
すっかり夏を思わせる日差しが照る屋上で、ホースで水を撒いていたの背中はすぐに見つかった。
しばらくそこらへんの段差に腰を下ろして、その姿を遠巻きに眺める。
すべての花壇に几帳面に雨を降らすさまに、真面目すぎるの性格が見てとれた。
誰が見ているわけでもないのに——いや、今俺が見ているがそれは抜きにして——まっすぐな伸びた背筋はどこか緊張感を漂わせている。
一輪も枯らせるわけにはいかない。
何も知らなければ、滑稽なほどの入念さだ。
 一通り水やりが終わったのだろう。は花壇から離れ、水道の蛇口を止めるために振り返った。
そして、さも今気がついたように視線を上げて、笑顔で「あ、仁王」と俺の名前を呼んだ。

「今日もお務めご苦労サン」

 は「ありがと」と短く返事をしながら、テキパキとホースやバケツを片付けはじめる。
 足元の花壇は今しがた水浴びをしたおかげで、艶やかな雫をたくさんのせて輝いていた。眩しい生命力を感じ、目を細める。
 頼むから枯れないでくれよ。
脅しの混じった祈りを視線に込めても、我関せずとばかりに風に揺れるその姿は小憎らしい。
どっかの誰かサンにそっくりだ。

「今日のメニュー、仁王はウエイトトレーニング主体だってよ」

 ご愁傷様ぁ、とは揶揄うように明るく笑う。

「マジか。さっき参謀に会ったが、そんなこと一言もいっちょらんかったがの」
「言ったら逃げると思われたんじゃない?」
「ほんに信用ないのう」
「ドンマイ」

 はクスクス笑いながら、自分の汚れた手を丁寧に洗っていた。
パチパチと親指の爪を使って他の指先と爪の間に入った土を掻き出していく。
左手の人差し指、中指、薬指、小指。右手の人差し指、中指、——

 がここでダムが決壊するように泣いたのは先週のことだ。



「親から部活辞めろって言われるの」

 膝をコンクリートの固い床につき、しゃくりあげながら必死に話し出すの前に自分もしゃがんで震える声に真剣に耳を傾ける。

「ずっと調子悪くて、病院行ったらストレスが原因だって言われて、それ聞いたお母さんに『今すぐ部活辞めなさい』って怒られて……。でも、私部活辞めたくないっ!」

 ぎゅうっと身体を縮こまらせて泣いているを堪らず抱きしめた。
「辞めたくないよ」とくぐもった声が夏服のワイシャツの生地に染み込んでいく。

「ルール違反はしてません。立海ウチが勝ったのは、立海ウチの選手が“強い”からです」

 あのときのの言葉は彼奴らなんかに言った言葉ではなく、きっとが自身自分に言い聞かせていた言葉だ。
周りからなにを言われても、今は歩みを止めるわけにはいかない。
勝つことが最重要項目で、それ以外は全部後回し。
自分たちのできることを必死に掻き集めて、それを燃料にして突き進む。
反省したりなんかしている暇はない。
考え込んだりしている余裕はない。
一度立ち止まってしまったら、もう二度と歩き出せないような気がして、怖くて仕方がない。
の気持ちが手に取るようにわかった。

「心配すんな。俺たちは絶対勝つ。幸村もすぐに良くなる」

 “絶対”なんてこの世にはありえない。幸村の病状なんて俺にはわからない。
それでも、今この瞬間だけはそう言っても許される気がした。
詐欺ペテンなら俺の専門分野。ひとを欺くのは慣れている。
目の前の少女を少しでも安心させるためだ。他のどんな嘘より誠実な嘘に違いない。許されるべき嘘であり、願いであり、誓いだ。
 絶対勝つ。勝つ、勝つ、勝つ。
 幸村は良くなる。良くなる、良くなる、良くなる。
呪文のように唱え続ければ、真実になるかもしれない。
自分に言い聞かせる言葉が必要なのはみんな同じだ。

 泣き止みかけたが「ごめんね」と小さく謝った。

「苦しいの私だけじゃないのに……」

 離れかけた身体をもう一度強めに抱きしめる。
の身体は泣いたせいか、子供のように体温が高かった。

「今は部活の時間じゃないき。だから、お前さんはただの女の子じゃ。弱音くらいいくらでも俺が聞いちゃる」
「……仁王って私のこと泣かせたいのか泣かせたくないのかわかんない」

 俺もわからないんだからしょうがない。
 本当は無理にでも休ませた方がいいのではないかと思っていたが、そんなことしても無意味なことはわかった。
なら、今のこの時間が少しでも癒しになればいいと思う。
ときには背を丸めて泣いたっていいはずだ。誰かに寄りかかったっていいはずだ。
独りでがんばれるほど強くなくたっていいはずだ。

「そろそろほんとに離れて。こんなとこ他のひとに見られたら、私仁王のファンに殺されちゃう」

 は戯けてみせる。
それは「もう大丈夫」と強がってるようにも見えた。



 きゅ、きゅ、きゅ、としっかり蛇口を閉めて、は自分の濡れた手をハンカチで拭った。

「わざわざ毎日迎えに来なくても、私サボったりなんかしないよ」

 わかってる。そんなこと。疑ってるわけじゃない。

「……心配くらいさせんしゃい」

 そう言えば、は困ったように笑って、「仁王の前で泣くんじゃなかった」と溜息をつかれた。

「さ、部活行こっか」

 が「ほら、早く! 早く! 遅刻しちゃう!」と俺の背を押して急かす。
 立ち止まれないのなら、一緒に走りきろう。
それが俺にできる数少ないことだ。
 バタン、と背後で大きな音を立てて鉄の扉が閉まったが、俺もも振り返らず階段を降りてまっすぐ部室へ向かった。


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