ゴミ捨てのために校舎裏をひとりで歩いていると、金木犀の香りの風に乗ってひらりと紙ヒコーキが一機、私の足元に美しく着陸した。
抱えていたゴミ袋を一旦置いて、その紙ヒコーキを拾いあげる。
先までピンと尖るように綺麗に折られたそれをそっと平面に戻していくと、プリントアウトされた文章や図や数字、そしてその合間にはお世辞にも上手いとは言えない手書き文字が姿を現した。しかし、それを飾っているのは赤い大きな丸ばかりだ。
用紙の一番上に書かれた歪な名前を指先でひと撫でする。
それからそれをきちんと折りたたんでブレザーのポケットにしまった。



「三年B組出席番号十四番、仁王雅治」

 紙ヒコーキの製造主は、屋上の日陰で悠々と長い脚を組みながら寝転んでいた。
私の呼びかけに、片目を開けて「よおここがわかったのう」なんて白々しい。

「みんなが真面目に海原祭の片付けしてる中、キミはこんなところで何をやってるのかな?」

 非難の視線を送りながら、自分も仁王のとなりに腰を下ろす。
スカートから伸びたむき出しの太ももと膝が固いコンクリートに触れて、ひやりとした。
影の中はもう次の季節だ。

「ちょっと手、怪我してのう」

 そう言って仁王は利き手をヒラヒラと振ってさせてみせた。
思わず「えっ!」と声を上げて身を乗り出す。

「看板をバラしてる最中に釘でザクっとな」
「えっ、大丈夫? 保健室は? ちゃんと手当してもらった?」
「それがちょうど保健室が閉まっとってのう」
「ダメじゃん! 部室から救急箱取ってくるからちょっと待ってて。あ、その前に一応怪我見せて」

 掴んだ仁王の手は何故かいつの間にかグーに握られていた。

「なに? どれ? どこ怪我したの? 手のひら?」

 慌てる私の目の前でパッと開いた手のひらには傷なんてなく、代わりに飴玉が一つ握られていた。
それでやっと自分が化かされたのだと気づく。
「もうっ」と言って握っていた仁王の手を投げ捨てた。
仁王は悪戯が成功して満足したのか、クックックッと喉の奥で笑う。
私は大げさな溜息をついて、座り直し壁に背中を任せた。その間も仁王はなにがそんなにおかしいのかクックックッと笑い続けていた。

「はい、コレ」

 ブレザーのポケットから折りたたまれた紙を仁王に押し付ける。元紙ヒコーキ。元元九十六点の数学の答案用紙。
 いつだったか「なんで仁王はあんなにサボってるくせに普通に頭イイんだよ!」と赤也ほどではないがそこそこ成績の思わしくない丸井が追試の課題を手に憤慨していたことがあった。
確かにまぁ、授業は時々サボっている。でも、それがイコール勉強をサボっているということには繋がらないんじゃなかいか、と私はひっそりと思っていた。
実際に見たことはないが、案外仁王のノートはきちんと埋まっていそうだ。
残念なのは字が恐ろしく汚いことだけで。
 仁王はそういう奴なのだ。
自分の努力の痕跡を他人に悟らせない。
だから周りは功績だけが目に入り、狡をしたのではないかと訝しむ。
アイツならやりかねない、と。
冗談で笑う人もいれば、本気で疑う人もいた。
それでも結局仁王は自分のスタイルを最後まで貫き通した。
誰になにを言われようと、揺るがなかった背中は猫背だけど見えないまっすぐな芯が一本通っているのだろう。

 高等部になったら、柳は選手ではなくマネージャーに志願するらしい。ジャッカルはそもそも付属の高等部には進まず公立校を受験すると言っていた。柳生は大学受験に集中するために部には入らないときっぱりと宣言していた。
もう二度と同じメンバーで試合に臨み、勝利を分かち合えることはない。同じ夏はもう二度とやってこない。
当たり前のことだ。悲しむ必要なんてない。
けれど、仁王はそのことに酷くショックを受けているようにみえた。
 友情! 努力! 勝利! おおよそ仁王には似つかわしくない少年漫画のキャッチフーズみたいな言葉が仁王の身体の中にはたくさん詰まっていて、月日とともにぎゅうぎゅうと押し固められたそれは、八月二十三日、あのスタジアムで砕け散った。
パチンッと。
シャボン玉が弾けるように呆気なく。
 全国大会。シングルス三の試合が終わったあと、仁王はみんなといるところには戻ってこず、スタジアムの後部座席でひとり不貞腐れたように座っていた。
いつも通り。こんなときこそいつも通り、タオルを渡そう。
そう思って動いた私を柳生が「今は」と首を横に振ってそっと制した。

「男はこういうときそっとしておいてほしいものなんですよ」

 うん。と小さく頷くことしかできなかった。
だって私は女だから。男の考え方なんてわからない。

「と言うより、自分で乗り越えなくてはいけないんです」

 また、うん。と頷く。
 横では丸井とジャッカルがコートに立つ準備をしていた。
そうだ、まだ立海の試合は終わっていない。応援しなくちゃ。
私がここでできることなんて限られているんだから、ちゃんと応援しなくちゃ。

さん」
「うん」
「そのかわり寂しいときはそばにいてあげてください」

 うん。もう声にはできずただ頷いただけだったが、柳生には伝わったようだった。
「さ、丸井君たちの応援をしましょう」と柳生がコートに向き直る。
そうだ、今は応援だ。私も仁王に背を向けた。



 知ってるよ。
さっきの紙ヒコーキには、本当は炙り出しかなにかで〈さびしいからそばにいて〉って書いてあったんでしょう。
届いたよ、インヴィテーション。
だから、来たよ。
私が辛くてどうしようもないときに、そっと手を差し伸べてくれたように、私も仁王の助けになりたい。
止まない雨はない。大丈夫。そうやって、私の心に降る雨に傘をさしてくれたのは仁王だから。

「手、見せて」

 ん? と首を傾げた仁王が利き手を私に向けたので、「そっちじゃなくて」とさっきからずっとズボンのポケットに入りっぱなしになっていた逆の手に視線を向けて促す。
仕方がない、とばかりに気だるげに出されたその手のひらには絆創膏。
乱暴に貼られて角が折れているし、傷を覆ってる部分はすでに血がずいぶんと滲んでいた。

「ちゃんと手当しよう」

そう言えば、仁王は「お前さんにはかなわんのう」と少し困ったような、ほっとしたような、そんな顔で笑った。