『愛は愛のまま』の続き

おそらく彼女は料理があまり得意ではないのだろう。じゃがいもの皮一つ剥くのにかれこれ五分はかかっている様子を見ると、今日は一体何時に夕食にありつけるのだろうかとため息をつきたくなる。
 そんな彼女、元教え子のが俺の家に頻繁に通うようになってまだ日は浅い。先日の彼女の二十歳の誕生日、彼女はかつて俺が言った「後五年したら相手したるわ」という言葉を真に受けて、俺のアパートを襲来した。それ以来この調子である。
 この状況をそろそろどうにかしなくてはならないと思っているのに、中々重い腰があげられず流されるまま今日に至ってしまった。

 やっと食材が全て鍋に収まったようだ。鍋の火を弱火にして、彼女がエプロンを外し、競馬新聞を読んでいる俺の隣に腰を下ろした。彼女がぴとりとくっついてきたので、腰を浮かして距離を取る。
「お前何年や?」
「ん?」
「干支や、干支」
「◯◯年や」
「俺もや」
「わーい、一緒や」
「「わーい、一緒や」やないわ」
「なんで?ええやん。干支で占い見るとき、手間省けて便利やん。私いつも星座も血液型も占い見るときは全部、自分の分もオサムちゃんの分も両方見んねんで」
「おお、それはおおきに。って違う。そんなんどうでもええ」
「じゃあ何?」
「一周り離れてるっちゅう話や」
 が露骨に顔をしかめる。またその話かとでも言いたいのだろう。俺だってそう何度も同じ話はしたくない。けれど、相手がわかってくれないんだから仕方がない。
「正直言って俺は、やっぱりお前のことそういう風には見れん」
「なんで」
「お前かて、小学生に好きや言われても困るやろ?」
「……私、小学生ちゃうし」
「俺にとっては同じようなもんや。ていうか、お前にとってマイナス十二歳は八歳。小学生やろ?そういう話をしてんのや」
 彼女の口がへの字に曲がる。そんな表情はまるで幼い子供のようだった。
「俺にとってお前は五年経とうが十年経とうが、ずっと十二歳下の俺とは別世界の生き物やねん」
「……なんで今更そんなどうしようもない話するん?」
「どうしようもないことやからや」
「……年齢のこと抜きにして、私自身のことを見てくれへんの?」
 縋るような視線が俺にまとわりつく。それを吸っていたタバコの煙で掻き消し、できるだけはっきり答えた。
「無理や。俺はお前を好きになることはない」
 は項垂れ、オサムちゃんの阿呆と小さく吐き出してから、自分の荷物を抱えてアパートから出て行った。彼女の靴の踵がアパートの外階段を鳴らすのが部屋の中からでも聞こえる。それが完全に聞こえなくなり、タバコの煙を一気に吐き出した。立ち上がり、点きっぱなしなっていたガスコンロの火を止める。
 俺はその後、歪なじゃがいもがゴロゴロ入った生煮えの肉じゃがを一人で食べた。


◇◆◇


 白石からメールが入り、指定された居酒屋へ行けば、お馴染みの元テニス部メンバーに赤ら顔で出迎えられた。こっち、こっちと座敷の奥に通され、白石の横に座らせられる。目の前に生ビールのジョッキが運ばれてきて、「オサムちゃん、お疲れーい!」と次々とグラスを思いっきりぶつけられた。既に皆だいぶ出来上がっているようだ。こいつらが二十歳になってからこういった会が増えた。元部活顧問の先生としては些か言ってやりたいこともあったが、まぁもう二十歳だ。ほっておこう。

「そういえば、この間、にオサムちゃんの住所教えたんやけど、アレ何やったん?」
 白石が思い出したように突然俺に尋ねた。あぁ、あれな、何やったっけな?っと適当に誤魔化す。
「?サン?サンってあのサン?」
「謙也がどのサンのこと言うてるかようわからへんけど、同学年にっておったやろ?そのサンや」
「ウチの学校にサン一人しかおらへんやろ。三年のとき一組やった大人っぽい子やろ?白石、仲よかったっけ?」
「同小やねん。んで、家が近所やからこの間もばったり会うてん。したら、急になんやオサムちゃんの住所教えろって凄まれてビビったわ」
 ほんまに何やったん?と白石がめげずに聞くもんだから、年賀状でも送る気なんちゃうか?っとこれまた適当に誤魔化した。白石は不服そうな顔をするもこれ以上問い詰めても、俺が何か吐くことはないと判断したのか無駄な押し問答は止めた。
「一組言うたら、千歳と同じクラスやんなぁ。千歳覚えて……るわけないか」
「そげんこつなか、覚えとるばい。むぞらしか女の子は忘れんばい」
「お前……現金やな」
「俺もその先輩なら覚えてますよ」
「そこにまさかの財前!なんや、お前もにホレっとったん?」
「ちゃいます。同じ図書委員になったことあるんだけっスわ。てゆーか、って謙也サンあの先輩のこと好きやったんですか?」
「ちゃ、ちゃうし!俺やなくて、けど、ほら、あれや!」
「どれや」
「モテっとったやろ。サン!」
「まぁ、確かに。ウチの学年でも告ってた奴おりましたわ」
「でも確かずっと彼氏おらんかったやんなぁ」
「謙也サン、マジで詳しいっスね。ほんまに好きだったんちゃいます?」
「ちゃう言うてるやろ!ただ結構モテとるんのになんで誰とも付き合わへんのかなって不思議に思っとったから覚えてんねん」
「誰か好きな奴いたんとちゃいます?」
 財前の発言に柄にもなくドキリとしてしまう。アルコールの所為ではない妙な汗を手のひらに感じた。
「せやったら、なんでソイツと付き合うてなかったんやろ?」
「相手に他に好き奴がおるとか、彼女持ちとか、まぁあとは周りが知らんだけで高校生とか年上と付き合うてたのかもしれませんよ」
「あー確かに!サンならそれわかる気いするわ!」
「そうかぁ?はあんましそういうのに興味なかっただけとちゃう?そういえば、その頃謙也はやなくて、同じクラスの柏木サンのこと好きーー」
「白石ィイー!」
 忍足が勢いよく白石に飛びつくもんだから、白石が手にしていたビールを零してしまう。それは瞬く間にテーブルを流れていき、財前のスマホを濡らし、忍足は財前からヘッドロックを喰らう羽目になる。
 それを横目で見ながら、こっそりほっと一息つく。これでの話は終わるだろう。けれど誰もが俺のことを好きだと知らないことに驚いた。何故だろう。あの頃、彼女は廊下だろうと職員室だろうと部室だろうとなんの躊躇いもなく俺を好きだと言っていたはずなのに。
 しかし、注意深く思い起こしてみると、彼女が俺を好きだと言うのは、決まって周りに他に誰も居ないときだった。あまりにも自然なタイミングで、世間話をする様になんでもないトーンで、でも絶対二人っきりのときに、先生と生徒としての適切な距離を保ったまま、彼女は俺に「オサムちゃん、好きやで」と言った。そして俺のわかりきった返事を聞いてから、にこりと笑って出て行くお決まりのパターンを卒業まで飽きもせず幾度となく繰り返した。
 今思えば、彼女は俺の教師という立場を慮ってくれていたのだろう。俺にいらぬ迷惑がかからないように、細心の注意を払ってくれていた。しかもそれを俺自身にも気付かせずに。そんなことに五年経ってからようやく気付く。
 その頃から彼女は俺なんかより、よほど大人だったのかもしれない。彼女はちゃんと他人を思いやれる優しい人間だったのだ。


「ほな、俺はそろそろ帰るわ」
 五千円札をテーブルに置いて、タバコとライターをポケットにしまう。
「えーなんでやねん!まだええやん!もうちょっと居てや!」
 忍足が俺の肩を掴み再び座らせようとするのを白石がまぁまぁと宥めてくれた。
「お前らお気楽な大学生と違うて、俺は明日も学校行かなあかんねん」
「なんや急にええ教師面しおって。オサムちゃんの阿呆」
 堪忍、堪忍、またなと言い残して店を出る。ガヤガヤと煩かった店内の雑音がまだ耳に残っている中、サンダルを鳴らて夜道を歩く。アルコールで火照った身体に夜風が気持ち良い。ふと見上げた空には美しい月が浮かんでいた。
 彼女は、は、今何をしているのだろうか。彼女の猛攻が再び止んでからもう一週間ほど経った。あれ以来、彼女はパタリとまた俺の前に姿を現わさなくなった。
 大人だとか子供だとか、教師だとか生徒だとか、そんなわかりきった肩書きを無くしてしまえば、困るのは俺の方だ。彼女は将来に夢や希望溢れる美しい女だが、俺はうだつが上がらないただの甲斐性なしの中年男。一人の男として、彼女に向き合う自信がなかった。だから、歳の所為にして、突き放して、彼女がそんな俺のチンケなプライドに気付かないうちに終わらせてしまいたかった。彼女に失望されたくない。彼女が好きになってくれた大人な男として、彼女の記憶に残っていたかった。
 そんな風に思っている自分に苦笑するしかない。我ながら、情けないことこの上ないが仕方がない。彼女には幸せになってもらいたかった。



「あ、おかえり!」
「おかえりちゃうやろ!何してんのや、お前!」
 が俺の自宅アパートの部屋の前で膝を抱えて座ってるのを見つけた。微かに残っていた酔いも一気に醒める。
「オサムちゃんのこと待っとった」
「阿呆か!今何時やと思ってんねん!こんな遅おになんかあったらどないするんや!」
「ごめんなさい。でもな、ちょっと私、オサムちゃんに報告したいことあってん」
 彼女がいそいそと持っていた鞄から何冊もの訳のわからない本とキャンパスノートを取り出した。本の背には『催眠術のかけ方』、『マインド・コントロール』、『誰でもすぐできる催眠術の教科書』、『完全マスター催眠術』と禍々しい書体で書いてある。全部怪しすぎる。
「あんな、私、催眠術の勉強始めてん」
「ハ?」
「いろいろ調べたんやけど、やっぱり急に肉体的に十二歳若返ったり、年取ったりする方法はなさそうやから、催眠術とかで精神的にだけでも同い年って思えれば突破口になるかなって」
 彼女が持っていたノートをパラパラとめくれば、授業の板書のように催眠術に関することが丁寧にまとめられていた。ご丁寧にラインマーカーまで引いてある。彼女の優秀な頭脳が遺憾無く発揮されていた。
「ここまでまとめるんに一週間かかってん。でもとりあえず、基礎は理解したから、あとは実践あるのみやと思うんよ。せやから、オサムちゃん、明日から特訓付き合うてな!」
 その言葉で、この一週間、彼女が俺の前に現れなかった理由が明らかになり、俺は心の底から安堵した。突き放したのは自分のくせに、彼女が俺をまだ想っているという事実が俺を大きく揺さぶる。蓋をするつもりだった自分の気持ちがグラグラと音を立てて吹きこぼれてしまいそうだった。

……」
「そういうことやから、よろしくね!」
 俺が何か言う前に彼女はひらりと身を翻し、アパートの階段を下りはじめる。しかし彼女のブーツのヒールの音が半分ほど下りたあたりで急に止んだ。彼女がゆっくりと振り返える。

「オサムちゃん、この間小学生に好きや言われても困るやろって私に聞いたやん?それであのあとよう考えたんやけど……私な、オサムちゃんやったらきっと小学生でも好きになってると思うよ。歳とか関係ないねん。私はオサムちゃんがオサムちゃんやから好きなんやで」
 そう言った彼女の鼻の頭が赤いことに気付く。堪らず俺は彼女の元へ行き、彼女を抱きしめた。触れた頬がひんやりと冷たくて心地良い。「オサムちゃん?」と彼女が小さく漏らしたが、聞こえないフリをして、より一層強く抱きしめ直した。そうすると、彼女の手がそっと俺の背に回る。俺の腕の中で、駄目押しのように彼女が「オサムちゃん、大好きやで」と囁いた。