いつものお弁当屋に閉店間際、駆け込こんだ。 その後スーパーで缶ビールとタバコを買い、ビニル袋をガサガサと鳴らしながら夜道を歩く。
 自宅のおんぼろアパートの外階段を上っていると上着のポケットに入れていた携帯電話が微かに震えるのを感じた。
 それを歩きながら確認すれば、それは元教え子・白石からのメールだった。
〈オサムちゃん、ごめん〉
 なんだ、この遺書みたいな内容のメールは。
 不信に思いつつも、丁度自宅に着いたので、一旦携帯電話を元のポケットにしまい、代わりに家の鍵を取り出した。ガチャリと音を立てた後、薄い扉を開ける。鍵を玄関の棚に置いて、振り返えって扉を閉めようとしたとき、突然何かが部屋に入ってきた。そしてそのまま俺に突進して、押し倒される。
 強盗の類かと思って、身構えたがどうやらそれは違いそうだ。俺の腹の上に乗っているのは、屈強な黒づくめの男なんかではなく、小柄な若い女だった。

「オサムちゃん!」

 ぱっ、と女が顔を上げた。
 どうやら相手は自分を知っているようである。
 電気もつけていないので、相手の顔がよく見えない。俺は微かにしか得られない情報を必死に記憶と照らし合わせた。
 オサムちゃん、と呼んだ声は確かに聞き覚えがあった。
 オサムちゃん、好きやで、その声でよくそう言われていたのはもうだいぶ昔のことだ。

、か……?」

 俺が名前を呼べば、彼女は嬉しそうに俺に抱きついた。



「ストップ!ストップ!」
「何?」
「何?やないやろ、お前。てか、なんで俺の家知っとるんや?」
 未だに俺の腰に回っている彼女の腕を掴んで、剥がす。
「白石に詰め寄って吐かせた」
 これで先ほどの白石からの謎のメールの真意がわかった。そういうことか。
「何しに来てん。こんな夜遅おに、あかんやろ」
 俺が少し怒った調子で言えば、彼女は頬を膨らませて不満そうな顔をした。
「約束、はたしに来てん。忘れたん?」
 約束、ヤクソク、……はて?
 もう、と彼女が一発俺の腹を殴る。痛い。てゆーか、退いてくれ。まだ彼女は俺に馬乗り状態のままだった。
「私が中学生のとき「好きや」って言うたら、オサムちゃん「後五年したら相手したるわ」って言ってた!」
 もうそれほど言われなくなったが、もう少し若い頃はたまに女子生徒に好きだなんて言われることがあった。おそらく十四、五歳そこらの年齢の少女にとって、接点のある年上の男なんて限らせられている。だから彼女たちの淡い期待や勝手な憧れの矛先が、気まぐれに一番身近な年上(だけど年上すぎない)の俺をつつくことがあった。
 確かにそんなときはいつも決まって「後五年したら相手したるわ」と適当にはぐらかしていた。 どうせ彼女たちのその感情は一過性のものに過ぎない。はずらかして、はぐらかして、卒業させてしまえば、それで終わりだった。
 しかし、どうやら彼女はそれを本気にしていたらしい。

「ほんまに来よったんはお前が初めてやわ」
「ちょお!他の子にも同じようなこと言ってたん?!最低!阿呆!この浮気者!」
 俺の腹に乗ったままぴょんぴょんと飛び跳ねるもんだから堪らず唸る。止めてくれ。てゆーか、本当に退いてくれ。


◇◆◇


は確か白石たちと同じ学年だったはずだ。
何がキッカケだったのか、はたまたそもそもキッカケなんてないのか、が突然俺を好きだと言い出したのは彼女が三年生の秋頃だったように記憶している。
 そんなことを言い出すまで俺の中での彼女は成績も優秀で、真面目な印象の生徒だった。学年一とまではいかないが、その涼やかなそつのない姿は男子生徒から概ね好評価を得ていたはずだ。 だから初めて彼女に好きだと言われたときは、一瞬固まったのを覚えている。もちろん驚いてだ。
 俺と彼女しかいない放課後の理科準備室。
「私、オサムちゃんのこと好きやねん」
 それだけ言うと彼女はにっこり笑ってスカートを翻し、部屋から出ていってしまった。
 ぽとりと吸っていたタバコの灰が落ちて、慌てて灰皿でもみ消したのを覚えている。
 それからだ。彼女はことあるごとに俺に好きだと言うようになったのは。最初こそ驚いて反応に遅れたものの、そのあとはいつもお決まりのセリフである「後五年したら相手したるわ」と言って今までの子と同じようにはぐらかした。
 しかし彼女はめげなかった。おそらく過去一番の積極性だったと思う。彼女の猛攻は突然始まり、そして卒業するまで続いた。

卒業式の日。
いつものように「オサムちゃん、好きやで」とは言った。
 これも今日で聞き納めかと思うとほんの少しだけ心に引っかかりはあった。けれど、所詮少女の気まぐれだ。それに一々振り回されてやるほど、俺もお人好しではない。
「ハイハイ、後五年したら相手したるわ」
 五年経ったら、彼女は二十歳。そんな頃にはもうこんなオッサンのことなんか忘れて、年相応の男の一人や二人侍らせていることだろう。
「ほな、五年後の私の二十歳の誕生日!絶対オサムちゃんのとこに行くからな!それまで首でも洗って待っとき!」
 高らかにそう宣言したはとびきりの笑顔で笑っていた。
 それが彼女と会った最後の日だ。
 それから今日まで俺は彼女と一度も会ってもいなければ、なんの連絡も取り合っていない。


◇◆◇


「あんなあ、ハタチのお嬢ちゃんがこないなオッサン捕まえてどないすんねん。周りにもっとええ奴おるやろ?それにお遊びに付き合うほど、オサムちゃんももう若くないねん」
 をようやっと退かして、腕を持って立ち上がらせ、俺も一緒に立ち上がる。部屋に明かりをつけて、開けっ放しになっていた玄関の扉に彼女を押しやる。
「ほな、もう帰り。夜遅いから気つけや」
「イヤや!」
 腕を掴んでいた手を振り払われる。その拍子に見上げた彼女の顔には涙が流れていた。
 今までずっと暗がりだったから、このとき初めて俺は彼女の顔をまともに見た。
 彼女は美しく成長していた。少女と呼ぶにはもう難しい。

「オサムちゃんが、オッサンやろうと爺さんやろうと、禿げてようと太ってようとニコチンだろうと関係ないねん!」
 彼女の叫び声が狭いアパートの部屋に響きわたった。
 記憶に残っている昔の彼女は、そういえばいつだって笑顔だったなと思い出す。
 照れている様子もなく、「オサムちゃん、好きや」と言ってにこりと微笑んでいる姿は、当時からいやに大人びていた。だからこんなにも激しく感情を爆発させた彼女を俺は昔も含めて初めて見るに違いない。

「この五年、私はこの日のことだけ思って生きてきたんや!絶対責任とってもらうで!」
 俺は再び彼女の突進を喰らい、後ろによろけた。
 抱きしめるなんて表現では到底表しきれない力で、が俺の身体を逃さんと締め上げる。
「オサムちゃん、好きや」
 ほんまに、すき、だいすき、くぐもった彼女の声が俺の胸元で震えていた。
 自分の両の手を彼女の背に回そうか考えている自分がいることに気づいて唖然とした。