人混みでわたしを見つけた仁王がまるでさらうみたいにわたしの手を取り駆け出した。友達の驚いた顔も他のテニス部のニヤけた顔もびゅんびゅん通り過ぎ、大会終わりでごった返す人の波をかきわけて、ただひたすら走る。胸がどきどきして苦しい。

 高校生ともなると彼氏・彼女は当たりまえ。とまでとは言わないが、それなりにそういう付き合いをする人たちも出てくるお年頃。完全にタイミングだと思うが、そのときたまたまわたしの周りには彼氏もちの友達ばかりだった。そしてこの度、わたしと一緒で長らくお一人様だった一番の仲良しの友達にもめでたく彼氏ができる。彼女はずっと一途に恋をしていて、それが実ったのだから、大変喜ばしいことなのだが、友達がみんな彼氏と帰るなか、一人教室に残される自分を思うとため息の一つでもつきたくなるのが心情だ。

「あー……彼氏ほし……」

 わたしに彼氏がいたら、さっきだって友達に「彼氏とはいつでも一緒にいられるし、今日は久しぶりにみんなで帰ろうか」なんて気を使わせずに済んだはず。
 窓際の自分の机でがくっと項垂れていると、ふいに前の席のイスを足を引く音がして、顔を上げた。全然自分の席じゃないのに我が物顔でそこに座っていた人物を下から見上げるかたちになる。

「なんじゃ、おまえさんも一丁前に彼氏欲しいんか」

 わたしの哀れな独り言を丁寧に拾ってくれたらしい。余計なことを。恨めしく思い、無言で視線を突き刺したが、その人物・仁王雅治はイスに横向きに腰掛けたまま前を見てるので、頬あたりに刺さるわたしの冷たい視線はその効力を充分に発揮しない。ていうか、話かけておいてその態度はどうなんだ。いつもみたいに揶揄うんだったらちゃんと揶揄ってほしい。こっちだって反応に困る。
 今日は一年二学期の修了式で、明日からは夏休み。放課後の教室や廊下には浮かれてはしゃぐひとたちばかりだが、きっとテニス部に夏休みはほとんどない。そういう部活であることは中学のときから知っていた。今日だって多くの部活が休みのなか、テニス部は問答無用で部活なのだろう。部活行かなくていいの、と言いかけて、ふと仁王と目が合う。なんでそんな眼でわたしを見て──……

「待っとって」

 なにを? と問うまえに、大きな手がわたしのつむじあたりに優しくそっと触れて、わたしから言葉を奪った。
 決定的ななにかを言われたわけでもされたわけでもない。だからなにも確証はない。
 なのにこのときわたしは「待つ」以外の選択肢を簡単に消去した。

 サボりぐせのある仁王が部活だけは絶対にサボらないことを知っている。手にまめができて、それがやぶれて、それでもラケットを握り続けていることを知っている。詐欺師だと、卑怯者だと蔑まれても決して揺るがない信念を持っていることを知っている。絶対無敗、王者立海、三連覇、どんなに重いプレッシャーがのしかかっても絶対に逃げ出さないことを知っている。今度こそ三連覇と中学時代には達成できなかったその目標に一緒に挑む仲間を大事に思っていることを知ってる。そして純粋にテニスが楽しくて大好きなことを知っている。
 案外不器用で大切なものは一度にたくさん持てないタイプなんでしょう。だから部活が終わるまで“待ってほしい”なんてわたしを繋ぎ止めるようことを言ったズルさをむしろ誠実だと思った。
 わたしはちゃんとぜんぶ知っている。
 だからあんな約束とも呼べないような約束がなくても、わたしはきっと待ってしまっていたんだと思う。
 彼氏が欲しいんじゃない。仁王が欲しいのだ。他の誰かではだめなのだ。はじめから。

「好きじゃ」
「……普通キスする前にそういうこと言わない?」
「知るか」

 やっと辿り着いたひとけのない場所で仁王がわたしを抱きしめて笑う。全速力で走ったあとだから息が上がってつらいし、心臓がうるさい。ああ、でもうるさいのはわたしの心臓だけではなさそうだ。押し付けられている仁王の左胸からもまた同じように早くなった鼓動が聞こえた。

「三連覇おめでとう」

 今度はわたしから祝福のキスを贈った。