「頼む!」

 え〜と……。これは一体どういう状況?
 放課後サロンで彼氏である忍足侑士と一緒に帰ろうと待ち合わせしているところに数名の生徒が連れ立って現れた。しかも揃って突然頭を下げ出すのでわけがわからない。
 すでにある程度この状況に察しがついているらしい侑士がはぁ、とこれみよがしなため息をついた。

「俺はやらんで、宍戸」
「まだなんにも言ってねぇだろ!」
「だいたい察しはついとんねん。他にもっと適任おるやろ」
「いねぇからこうやっておまえに頭まで下げてんだろ。あっちの頭は跡部だぜ。そこらへんの奴で対抗できるわけねぇだろ」
「そうは言うてもなぁ」
「あ、最悪拡声器使ってもいいぜ」
「……悪口やん」
「このまま何もしねぇで今年も跡部を一人勝ちさせていいのかよ!」
「一人勝ちちゅうわけちゃうやろ。チーム戦なんやし」
「そうかもしれねぇけど、毎年毎年あいつの高笑いで幕が閉じるのはもううんざりなんだよ!」

 なぁ? と宍戸が声をかけると頷く面々。「今年こそ絶対勝ちたいです!」と目を輝かせている同級生や後輩たちのパワーに圧倒される。
 ここまでくるとわたしにもやっと事態が飲み込めてきた。
 さて、どうしたものか。
 後輩たちから「彼女さんからもぜひ」と言われて、わたしは「ん〜」と考えこんだ。

「今年もやっぱりあの学ランみたいなやつ着るんだよね? あれかっこいいよね」

 わたしのノーテンキな発言に侑士が特大のため息をついて項垂れた。
 それが了承のサインになったのは言うまでもない。

「ということがございまして」

 と、わたしは昨日の出来事の一部始終を友人に話す。
 放課後の教室。窓から見えるグランドではさっそく侑士たちが体操着でなにやら準備をしていた。たぶんこれから練習なのだろう。
 昨日宍戸たちが侑士に頼んだこと、それは二週間後に開催予定の体育祭の応援団長だ。
 ここ数年は跡部、宍戸がそれぞれ紅組、白組(ルージュとブランと読みます。なんだそれ)の応援団長となり、それはそれは激しい死闘とも呼ぶべき熱い戦いを繰り広げていたのだが、今年は運悪くこの時期に宍戸が脚を怪我していて無理だということで侑士にお鉢が回ってきた。
 たしかにあの跡部に真っ向から勝負を挑める気概がある者がそうそういるわけもなくということだろう。唯一跡部に怯まず下剋上を成し遂げてくれそうな後輩も今年は跡部と同じ紅組らしい。
 そういうもろもろの要因が重なったことによる結果が今だった。

「いや、忍足くんが引き受けたの意外だなって思ってたんだけど、やっぱりあんたのせいか」
「え〜わたしのせいじゃないよ。てゆーか、たぶんわたしがあの場でなにか言わなくても侑士は引き受けたと思うよ」
「そうなの?」
「頼りにされるの案外嫌いじゃないんじゃないかな。だから、あの場でわたしがああいえば引き受けやすいだろうなって」

 まぁでも侑士の長ラン姿が見たいというのも本音ではあった。きっと本当にかっこいいだろうなぁとわたしは妄想する。

「でもさ、やっぱまずかったんじゃない?」
「どうして?」
「体育祭マジックって結構毎年あるんだよ」

 そんな悠長に構えてられるのも今のうちかもね、なんて脅す友人を尻目にわたしは再び視線をグラウンドに向けた。
 数十名の応援団員の一番前に立つ自分の彼氏。グラウンドを囲むフェンスにはすでにギャラリーがちらほら見てとれた。
 こんなこと今にはじまったことじゃない。テニスの試合のときなんかもっとすごいんだから。
 ふぅ、と息をはき、わたしもまた自分の担当である看板作りの作業に戻った。
 通りすがった係の子が『体育祭まであと16日』という看板の6の部分の数字を5に変えていた。
 自分にとっても彼にとってもいい思い出になる体育祭になればいいな、と思いながら赤いペンキで看板を丁寧に塗っていった。

 テニス部の練習はもちろん大変だが、それでも強豪校にしては自由な部分が多いらしい。休みは必ず週一はあるし、基本こういった大きなイベントごとの前も休みになる。まぁ部活が休みだからといって素直に練習を休む人間はレギュラー陣にはいなかもしれないが、と侑士は言っていたが実際どうなのだろう。部外者のわたしにはよくわからない。
 とりあえず本来なら部活のないこの期間は、わたしにとっていつもより長く侑士と過ごせる貴重なときだったのは言うまでない。しかし、今回は当たり前だがそうもいかず。
 応援団の練習はわたしが考えていた以上に厳しく、毎日門が閉まるギリギリまで居残っているらしかった。
 昨夜久々に受話器越しに聞いた彼の声が掠れていて、さすがに少し心配になった。
 体育祭まであと7日。
 どうやら拡声器は使わない方針にしたらしい。

 今日はグランドに応援団の姿はない。
 おかしいなぁ、と辺りをうろつくと応援団の数人が体育館の方へ入って行くのが見えたので、わたしはそれを追う。
 半分閉じかけた重い扉からチラッと中を伺えば、探し人である侑士が長ランを着て、白い手袋をつけている最中の後ろ姿が見えた。
 細身でありながらも背が高く、しっかりと鍛えられた体にその衣装は思った以上によく似合っている。
 わたしが思わず「うわぁ」と見惚れていると突然鼻先でぴしゃりと扉を閉められた。

「関係者以外立ち入り禁止でーす!」

 そう言ったチアガールの衣装をまとった後輩の女の子がわたしに対して得意げであったのは気のせいではないだろう。
 思うことがないではないが、わたしはそのまま素直に踵を返した。手に持っていた差し入れののど飴は、少し気が引けたが、彼の下駄箱に押し込んでおいた。
 さびしくないと言えば嘘になるが、さすがにそれを今言うべきではないことくらいわたしにもわかる。
 わたしは侑士に差し入れた飴と同じものを口の中で遊ばせながらチアガールの衣装を思い出していた。ノースリーブの上半身とラインの入ったミニ丈のプリーツスカート。髪が長い子は高い位置で一つに束ね、そこに白色のりぼんをあしらっていた。わりと彼の好みの格好だな、と思う。わりとというかかなりストライク。  今になって友人の「でもさ、やっぱまずかったんじゃない?」という言葉が脳裏に過ぎる。
 日に日にギャラリーも増え、応援団を応援するような生徒まで現れる始末。
 周りが「やっぱり忍足に頼んで正解だった」と満足する中、わたしだけがなんだかなぁという感想を抱きはじめていた。

 そうしてほとんど会えなかった期間を越え、やってきました体育祭当日。
 空風の吹く、小春日和。まさに絶好の体育祭日和。
 『体育祭まであと』に続く部分の数字が0になり、その横には得点板が設置されていた。
 紅組白組関係なく今回も多くの出資をしたと思われる跡部生徒会長のコールアンドレスポンスで華々しく戦いの火蓋は切って落とされた。
 なんというか毎度毎度のことだが、氷帝学園のイベントは本当にすごい。跡部様の手にかかるとすべてがエンターテインメントになるといっても過言ではないのだ。今日もテレビの取材が来てるとか来てないとか。保護者のみならず他校生までが見学に来ていること一つとっても規格外だ。普通の生徒はサーカスの団員にでもなったかのような妙なプレッシャーすらあった。
 でも、たぶん多くの生徒がそれすらも楽しんでいた。イベントなんてとスカしてかわしそうな年頃も多い中、氷帝生は常日頃から跡部に鍛えられているせいか、こういったことを楽しみきる術を身につけていた。だからサボりも少ないし、真剣に取り組む姿を茶化す者もいない。
 変な学校だなと思いつつ、わたしは割と嫌いではないと思っていた。たぶん侑士も似たり寄ったりの感想を持ってるのだろう。しゃあないなぁ、と眉尻を下げて笑う侑士の姿が簡単に目に浮かぶ。
 赤組も白組も一歩も引かないまま午前中の種目が終わった。昼休憩を挟み、午後イチの種目は応援合戦。いよいよ応援団長侑士の出番だ。
 早めにお昼を食べ終えグランドに降りたつもりだったが、すでにギャラリーは多く、いいポジションは人でごった返していた。

「そんなとこでボサっとしてんじゃねぇよ! こっちこいって!」

 ぐいっと腕を引っ張られた先にいたのは前方の席取りに成功した宍戸だ。
 応援合戦は紅組白組同じ場所で行われるため見学のポジションは自由だが、それでも縄張り意識というか暗黙の了解でゾーンが分かれていた。
 ここは白組ゾーン。赤い鉢巻を巻いているわたしにとってだいぶアウェーな場所だ。だが、「特等席で見てぇだろ」という宍戸のありがたい申し出を断る気はわたしにはない。
 ガヤガヤと熱気に包まれた歓声は高らかに響く指パッチンで静かになった。そこからはじまった跡部率いる紅組の応援パフォーマンスはおそらく後世に語り継がれることとなるだろう。ついさっき現状をサーカスに例えたわたしですら象の登場にはさすがに驚いた。驚いて大いに笑った。紙吹雪が舞い散り、ファンファーレが鳴り響く。
 こんな盛り上がりのあと出番を控える白組の応援団はさぞ気が重かろう。
 そんな外野の心配をよそに堂々と入場した侑士率いる白組応援団。和太鼓の安定した低い音が轟く中、黒い長ランに身を包み白い襷と鉢巻をたなびかせる姿は威厳すらうかがえる。見守る方も自然と固唾を呑んで静かになった。

「白組にエールを送る」

 侑士の低い声が伸びやかにあたりに響いた。  

「三・三・七拍ー子っ!」

 太鼓の音に合わせた動きは一糸乱れず指先の角度まで揃って美しい。
 突き出す拳は雄々しく先ほどまでの歓声を打ち破る力強さがあった。
 テニスをしている姿が一番かっこいいと思っていたが、もしかすると更新してしまうかもしれない。それくらい今日の侑士は特別輝いて見えた。これが体育祭マジックか! っとハッとなる。
 男子パートに続き、女子パートが始まり、チアガールもかなり高度なアクロバティックを披露する。高く上げた脚の高さまでぴったりとそろった見事なダンスだった。
 最後は男子女子そろった掛け声で終わる。
 終わった瞬間の拍手と歓声は紅組に負けず劣らずだった。

 あのあとすぐに忘れ物ついでにお手洗いのため校舎に入ったわたしはふと廊下の窓から熱気冷めやらぬグラウンドを下に見る。
 奥の特設ステージでは象と一緒にポーズをとる跡部の姿が見えた。どうやら撮影タイムらしい。四方八歩からレンズを向けられ、さながらレッドカーペットに立つ芸能人だ。

「あ、わたしたちもお願いしまーすっ!」 

 そんな光景を面白おかしく見ているとそれよりもっと近く、わたしがいる窓のすぐ下にまだ長ラン姿の侑士の姿があった。彼の前には彼と一緒に写真を撮りたがる女生徒の長蛇の列。こちらの撮影スタイルは個撮らしい。
 画面に収まるように彼女たちの身長に合わせてわざわざ屈んであげている侑士にわたしは「おーいっ!」と呼びかけた。

「宍戸がこっちで呼んでるよー!」

 声がする方を見上げそこにわたしがいることに驚いた様子の侑士がその場で女の子たちに何か言い、足早に校舎へ入ってくるのが見える。
 侑士が二階のわたしのところまで来るのにそう時間はかからなかった。

「おつかれさま」
「自分嘘下手やな」
「迷惑だった?」
「助かった」  

 午後の競技はすでに始まっているため校舎内に生徒はいない。少なくともこの廊下には侑士とわたししかいなかった。グラウンド側の窓辺に寄らなければきっと外からもふたりの姿を確認することは難しいだろう。
 外の喧騒から窓一枚隔てた廊下は驚くほど静かだった。

「飴ちゃん、これくれたの自分やろ」
「そうだよ。はちみつは喉にいいんだよ」
「食べもん下駄箱に入れるんはどうかと思うで」
「それは思ったんだけど、しょうがなくて」
「直接くれたったらよかったやん」
「なんかタイミング難しかった」

 いつのまにかすぐそばまで来ていた侑士がわたしの体をすっぽり隠すように抱きしめた。人の気配はないがここは学校だ。誰かに見られたら……と心配が過ったが、まぁいいか別に、とすぐに開き直った。たぶん侑士も同じ気持ちなのだろう。

「本当におつかれさま。すごくかっこよかったよ」
「そら自分にそう言ってもらうためにがんばったようなもんやからな」
「嘘ばっかり」
「嘘ちゃうで。せやからこんくらいのご褒美はちゃんともろうとかんと」

 ふふふ、と笑みがこぼれる。心にすくっていたもやもややチクチクはいつのまにか遠のいて、代わりに甘々でふわふわな気持ちだけが残った。我ながら単純だと思う。けれど、その単純さというか簡単さが彼との恋を長続きさせるコツのような気もしていた。
 彼のポケットから飴を取り出し、パクッと口に頬張った。
 はちみつ味のキスは卒業アルバムのどこにも載らないふたりだけの秘密の思い出だ。