四年制大学を卒業してそのまま社会人になったわたしに遅れること二年、当初からの予定どおり医師になった恋人、忍足侑士の多忙さはわたしの比ではなかった。
 大きな病院に配属された侑士は夜勤もあり、やっとどうにか仕事にも慣れカレンダー通りに休めるようになったわたしとは時間が合うはずもなく、すれ違いの日々が続く。
 何気なく交わすメッセージのやりとりさえ目に見えて減っていくのが悲しいけど、今はしかたのないことだと自分に言い聞かせた。なにより、珍しく本当に疲れていそうな侑士を自分のせいで困らせたくなかった。
 アプリのトーク履歴をさかのぼればたくさんの〈ごめん〉の文字。デートの約束が反故になった記録ばかりが目につく。  

「会いたいなぁ」

 とわざわざ口に出した独り言もひとりの部屋で虚しく響くだけだ。
 今夜、電話してもいい──そうメッセージを打ってから全部消した。
 その夜侑士から電話がかかってくるなんて奇跡はもちろん起きない。

 だから、久しぶりに侑士から連絡が来たときは本当に嬉しかった。もしかしたら遅くなってしまう可能性もあるから、部屋で先に待っていてほしいと言われて、ちょっといい食材を買い込んで、夕方ごろ侑士がひとりで住むマンションへ向かう。
 なかなか上達したと思う料理の腕前をやっと今夜披露できそうで気合いが入る。ついでに洗濯でもして、と深く考えもせず、洗面所へ向かった。なんなら、わたし奥さんみたい、と完全に浮かれていた。

「ん?」

 それを見つけたのは仕事着のポケットの中からだった。
 〈このあいだはありがとうございました〉とご丁寧にもハートマークがついたピンクのメモ。添えられた名前はもちろん女性の名前で、個人的な連絡先まで書かれてる。
 それだけ。たったそれだけなのに、わたしの心の糸はプツンっと切れてしまった。
 目の前が真っ暗になり、その場にぺたんと座り込む。
 こんなの大したことじゃない。モテるであろう彼ならこんな紙切れいままでに何十枚ともらってるに決まってる。
 頭ではわかってるのに、嫌な妄想が暴走して止まらない。
 わたしと会えない間にこの人と会ってたの? どんなことを話したの? どんなことをしていたの? ねぇ?
 やっとの思いで立ち上がり、無意識に握り潰してしまったそのメモをきれいに伸ばして、リビングのガラステーブルの上にに置いた。
 作りかけの料理も、洗濯も放置して、彼の家を出た。帰りの電車で『ごめん。今日は帰る』とメッセージを送る。珍しくすぐ反応があった。

『どないしたん? 具合でも悪いん? 大丈夫か?』
『大丈夫だよ。でも、ごめん、今日は会えない』
『わかった』
『ごめん』
『ええよ』
『ごめん、てゆーか、もう無理かも』
『なにが?』
『全部』

 ふぅ、と深く息を吐いてから『別れよう』と打った。でも送信ボタンは押せなくて、『少し考える時間がほしい』と打ち直して送信した。侑士からの返信は『わかった』という一言だけだった。察しのいい侑士のことだから、この一連のやりとりでなにかしらわたしの気持ちの変化に気づくことがあっただろうに、あえて言及はしてこない。それがもう答えなのかもしれないと思った。
 もう付き合いはじめて六年がたっていた。高校の卒業式の日にわたしから「好きです」と告白をして、「やっと言うてくれたな。待ちくたびれたで」と微笑まれたのが懐かしい。古びたアルバムをめくるみたいに想い出がいくつもいくつも蘇ってきて、まだ電車の中だというのに涙が止まらなくなる。
 大切にしてもらっていたと思う。確かに愛を感じたこともある。けど、それをもう現在進行形では語れない。花がしおれていつか枯れるのと同じで、恋にはきっと終わりが来る。
 本当は〈ごめん〉とメッセージが送られてくるたび疑っていた。彼の気持ちが自分から離れているんじゃないかって。“誰か”の存在がなくても、きっともうダメだった。

◇◆◇

「必死に“いい彼女”演じてる彼女がかわいそうで今までフれなかったのかもって。そもそもあの日も本当は向こうから別れ話する気だったのかも……」
 

 涙だか鼻水だかわからない液体がわたしの顔面を汚していた。
 ガヤガヤとうるさい大衆居酒屋。お酒が飲めるようになり早数年。だいぶこういう場所にも慣れたが、お酒自体はどうも体質に合わないらしくいまだにうまく分解できない。ぐびぐびと勢いだけで飲んだアルコールが全身を巡り、わたしの理性を奪っていた。涙がとめどなくあふれる。出てしまう水分を補うようにまた無理やりお酒を飲み干し、グラスジョッキを乱暴にテーブルに置いた。その拍子に体がぐらつきそのままとなりに倒れ込む。もうなにやってんの、と友だちが抱き止めてくれた。抱きついた体が柔らかくて暖かくて安心する。なのに、次の瞬間さびしさに襲われてまた涙がこぼれた。

「考えすぎじゃない?」
「てゆーか最初っからお情けだったのかも。告白したときだってわたしがかわいそうでしかたなく付き合っただけかも……」
「かもかもかもかもうるさいなぁ。卑屈すぎ。よくわかんないけど、普通さすがに好きじゃなかったら六年も付き合わないと思うけど」
「普通じゃないくらい優しいんだよぉ」
「それで? 優しい上にイケメンで? 実家が太くて、あとお医者さまなんだっけ? そりゃ女も寄ってくるわ」
「そうなんだよぉ」
「でも彼女なら堂々してりゃいいじゃん。どこぞの女の書いたメモなんか目の前で燃やしてしまえ」
「そんなことできないぃ」

 またわっと泣き出すわたしに構わず友だちは「すいませーんっ! 中ジョッキ追加でー!」と声を上げた。酒に弱いわたしとは違い、この友人は無尽蔵にアルコールを分解できるタチらしい。タフで羨ましい。あらゆる面で。

「連絡来ないの? ずっと?」
「もう一週間……」
「ま、自分から言ったんなら自業自得だよね」
「わかってるよ」
「……そのメモさ、別に浮気とかじゃなかったんじゃないの?」
「それもわかってるよぉ」

 目が合うだけでときめいて、話せるだけで嬉しくて、そんな頃も確かにあったはずなのだ。なのに、いつからこんな欲張りになってしまっていたんだろう。愛なんてかたちのないもの天秤には乗せられない。自分の愛と彼の愛。どちらが重いかなんてわかりっこないのに、勝手に決めつけて彼の愛を軽んじた。失ってからもっと大切にすればよかったなんて失礼すぎる。

「ほら、飲め。もっと飲め」
「もう無理だよぉ。それ頼んだの自分でしょぉ」
「飲んで忘れたフリをしろ」
「フリなの?」
「フリだよフリ。当たり前でしょ。そんな嫌なことだけ忘れられる都合のいい飲み物がこんな格安で手に入るわけなかろう、馬鹿野郎」
「ひ、ひどい……」
「とにかくフリでもいいの最初は。まずはかたちから。そのうち自然と忘れられるよ。男なんて星の数ほどいるんだから!」

 星じゃない。彼は夜空を優しく照らす月だ。世界にたった一つしかない。
 ごんっと自分の額がテーブルにぶつかったのがわかったが、そのまま目をつむった。体が重くてしょうがない。
 明日なんてもうこなければいい。月が登らないなら、陽もまた登らないでほしかった。

 プールの底から外の声を聞いてるような、もごもごとはっきり言葉にならない言葉が頭上を往復しているのに気づいた。それが少しずつクリアになっいき体を起こすと、「あ、やっと起きた」と友だちが目の前で笑った。じゃあ、今わたしも後ろから支えてるのは誰? 振り返るまでもない。包まれている感触だけでわかる。わたしを後ろから抱き抱えているのは侑士だ。狼狽えるわたしを残して「あとは若いお二人で〜」と友だちがまだ何件もハシゴできそうな軽やかさで消えていった。「えぇ、待ってぇ」と情けない声ですがるもあっけなく無視された。

「なにやってんねん。こんな酔うまで呑だらあかんやろ。水、飲みい」

 今自分が置かれている状況がよくわからないまま言われた通り差し出された水を飲んだ。自分が寝ている間に一体なにが起こったのか。ふと、テーブルにだしっぱなしになっていた自分の携帯が目に入った。

「……ごめん。もしかして友だちが連絡しちゃった?」  たぶんそうにちがいない。でなければここでたまたまなんて偶然起きるはずがない。なのに、侑士は首をゆっくり横にふった。

「俺からした」
「え?」
「そしたら、自分が潰れてる様子の写真とここの店のURL送られてきて迎えにきてくれって」
「それ送ったのわたしじゃないっ!」
「わかっとる」

 メッセージくれたんだ。なんてくれたんだろう? 確認したかったのに、それをする間もなくとりあえず出るでと促され居酒屋を出た。すっかり夜風が冷たい。その夜風から守るように侑士がわたしの体を支えてくれた。「そこのお兄さんお姉さん飲み直しませんか?」というキャッチをスルーして通りでタクシーに乗り込む。わたしが自分の家の住所を言う先に、侑士が自分の家の住所を運転手に告げた。
 一週間ぶりの侑士の家。テーブルの上にあのメモはない。
 たまらず侑士の背中に抱きついた。しがみついたって言った方が正しいかもしれない。
 ごめんなさい、ごめんなさいと泣きじゃくった。
 ごめんなさいじゃ全然自分の本当の気持ちが伝わらないのはわかるのにそれ以外の言葉が出てこない。ごめんなさい、ごめんなさい、と壊れたテープレコーダーみたいに同じ言葉を繰り返して、侑士を困らせた。ごめんなさい、ごめんなさい、でもまだ好きなの。どうしようもなく貴方が好きなの。

「謝るのはこっちやろ」

 侑士がそっと自分の体からわたしを剥がして、向き合うかたちになり、いたわるような優しい手つきでわたしの涙で濡れた頬に触れる。

「ごめんな、嫌な思いさせたて」

 否定の意味で首を横に振る。違う。悪いのは勝手に爆発したこっちだ。会いたくて、会いたくて、消化されず溜まってしまった自分の好きの重さに耐えられなくなったわたしのせい。

「あんなメモすぐ捨てるべきやったな。俺が浮気しとると思ったん?」
「わかんない……」
「してへんよ。するわけないやろ。ずっと自分だけやで」

 ぐっと抱き寄せられて彼の腕の中に収まると安心してまた涙があふれ出した。もう二度と離すもんかとぎゅうっとしがみつく。こうやって愛されてるって実感がほしかっただけなんだ。

「侑士ともっとずっと一緒にいたいよ」

 ねぇ、わたしたちまだ間に合うよね。
 祈るような気持ちで見上げれば、言葉より先に唇が降りてきて、体が都合良く波打つシーツの海に沈んでいった。

 朝起きてやっと携帯を確認すると侑士からのメッセージはすべて送信が取り消されていた。しかし、それを唯一見た友だちいわく「そうとう女々しかった」とのこと。どうりで「もうええやろ。仲直りしたんやし」とメッセージの内容をかたくなに教えてくれなかったわけだ。

「でも、めっちゃ愛されてて羨ましいな、とは思ったよ」

 だって。