保健室の一番奥にあるベッドのカーテンを引くと、彼女はそこで眠り姫のように目を閉じていた。

 しかし、忍足が来たことに気づくやいなや彼女はごろりと寝返りをうち、丸めた背中を忍足に向けてしまう。明らかな拒絶である。ため息をつきたいのをぐっと堪え、忍足は「大丈夫か」とできるだけ優しく声色をつくって話かけた。

「……大丈夫じゃないから保健室で寝てるの」

 だから、ほっておいて。そう存外に語る背中には見えない無数の刺が生えていた。触らぬ神に祟りなし。ということで退散したいところだがそうもいかない。ここで本当にほったらかしたら、それこそ火に油だ。女はみんな天邪鬼である。そして、彼女はそれを極めていた。

 つれなくしても引こうとしない忍足に少しは絆されてくれたのか、彼女が「眼鏡」とぽつりと呟いた。

「いつ直るの」

 彼女の言葉で忍足は自分がいま珍しく眼鏡をかけていないことを思い出した。今朝の朝練のあと自分の不注意で愛用の眼鏡を割ってしまっていたからだ。これ以上壊れないようにといまはケースにしまって鞄の中に入れてある。まあ、もともと伊達なので視力に問題はない。だが、いつもあるものがないとなるとどうやら関心をひくらしい。教室に入るなり「どうしたの?」「めずらしいね」と嬉々とした声でクラスの女子に話かけられた。それを彼女が遠目に見ていたことも知ってはいたが……。

「せやな、今日修理出すにしても二、三日はかかるかもしれへんなあ」

 のんびり答えると、彼女は「じゃあわたし二、三日学校休む」とますますへそを曲げた。

「どないしたん? 言うてくれへんとわからんで」

 うそだ。彼女がなにに苛立ってるのかもうおおよそわかっていた。けど、彼女の口から本心を聞きたい。

「……ずるい」
「ずるいだけじゃわからんで」
「……っそうやっていつもわたしばっかり!」

 そこで言葉の端が折れて、彼女はくやしそうに黙った。ぎゅっと握られた小さなこぶしが痛々しい。

「なに。わたしばっかり、なんやねん」

 追い討ちをかけるような言葉を選べば、キッとキツく睨まれる。だけど、同時にその瞳がみるみるうちに滲んでいくのがわかった。べつにむりに泣かせたいわけではない。これは本当だ。

「なあ、言うて」

 視線を逸らされぬよう両頬に手を当てうえを向かせた。

「……わたしばっかりすきでバカみたい」

 やっとこぼれた本音と涙とをいっしょに受け止めるように忍足は彼女の身体をぎゅっと抱きしめた。バカみたい。本当に。奇遇やな、俺もそう思うわ。

「今日一日ほかの女の子にきゃあきゃあ囲まれてるのイヤだった」
「うん」
「眼鏡、わたしの前でなきゃ取らないって言ったのに嘘つき」
「うん」

 うん、じゃないと叱られたが、彼女の腕もいつのまにか忍足の背中に周っていて、それはつまり“仲直り"をしたいという不器用な彼女なりのサインなんだろう。そう解釈することにして、忍足は「ごめんな」と彼女に優しく囁きかけた。

 わたしばっかりすきでバカみたい? アホ言うな。嫌われたかと思って今日一日生きた心地がせんかった俺はその何十倍、何百倍もおまえのことすきやってわからへんの? ……まあ、わからへんのやろなあ。そこまでは言うてへんし。せやけど、正直に言うたら引くんとちゃう? 何事も涼しい顔で器用にこなす大人な俺がすきなんやろ? 余裕のない俺なんか見せたら夢壊すだけやん。

 すきだから、ぜんぶ知りたい。彼女が醜いと決めつけて必死に隠すそうとする感情も洗いざらいすべて見せてほしい。そうしてくれたら、そのたび抱きしめて、「大丈夫」と囁いてあげられる。こわがらなくていい。なにも心配はいらない。安心して眠りに落ちるまで。何度でも——……

「治ったんなら自分の教室に帰りなさいよ」

 カーテン越しに養護教諭に声をかけられ、彼女が忍足からそっと身体を離した。そこでふっと我に返る。ここは学校でまだ陽も高い。

 忍足は早く夜になってほしいと思った。夜になって一人になって独りであることをことさら寂しく思いたい。恋が安全なものなるそのひとときを忍足は待ちわびた。