「好きです!」

 タチの悪い冗談でないことは明らかだった。
 呼び出されたのは放課後の校舎裏。なんの捻りもない趣向は大変彼女らしいが、他の人間がこのことを知ったらさぞや目を丸くすることだろう。
 なにより。この跡部景吾をわざわざ私用で呼び出した、ということ自体がこの学園においては非常識に値する。イレギュラー。非日常。跡部は完全にそれを楽しんでいた。

「えっと……跡部部長?」
「なんだ」
「あ、えっと……返事をですね……いただければとても光栄なんですが……」
「そんな遜った言い方はやめろ。“俺の女になりたい”そういう解釈で間違いはねぇな」
「“俺の女”……というか、彼女になりたいというか、あの、その、えっと、跡部部長ともっと一緒にいたいだけとでもいいますか……」
「はっきりしろ」
「あ、ハイ! そうです! 私を跡部部長の女にしてください!」

 よろしくお願いします!
 勢いよく下げられた頭。まっすぐに走った髪の分け目がよく見える。肩は微かに震えていた。自分が次に発する言葉一つで、目の前の幼気な小動物をいかようにでもできる。跡部はいつの間にか弧を描いていた自分の口元をそっと手で覆った。

「いいぜ、俺の女にしてやっても」
「本当ですか!」
「ただし——」

 パッと華やいだ表情は一転、困惑に変わる。跡部はそのままその場に彼女を残し、高笑いのまま校舎内へと戻った。


 。氷帝学園二年C組。男子テニス部マネージャー。成績は中の中。強いて言えば身体を動かすことが好きだが、特段それが得意というわけではない。秀でた才能がないことが才能でもあるかのような、凡人中の凡人。どこにでもいる一生徒。それがだ。
 は跡部の一つ下の部活の後輩だった。それ以上でも以下でもない。数多くいるマネージャーの一人。テニス部は部員もさることながらマネージャーの在籍数も他の部活と比べると群を抜いていた。それでも跡部景吾という人物は人の上に立つ者として全部員、全マネージャーの名前、その他簡単なプロファイルは頭にインプットしていた。を認識していたことは跡部にとって何も特別なことではなかった。



 パンッ、パンッ、パンッ。乾いた発砲音がグラウンドに鳴り響く。跡部はその音を生徒会と書かれたテントの中でこの上なく上機嫌で聞いていた。
その目の前をしょぼくれたが通りかかる。
も跡部の視線を意識したのか、生徒会のテントの前でだけはしゃんっと背筋を伸ばした。まだ諦めていないようだ。


「ただし、今度の体育祭でおまえが一位を取れたらの話だ。競技はなんだって構わねぇ」

 跡部がに突きつけた条件は簡単だった。たった今思いついたものだが、我ながらいいアイデアだと跡部は思う。

「体育祭の順位と告白の返答に一体なんの因果関係が?」
「“俺の女”を名乗るにはそれなりの称号が必要ってことだ」

 ひとが見れば程よくあしらわれたのだと思うであろう。揶揄われているのだと嗤う者があっても不思議ではない。
 ただ、跡部はという人物を知っていた。部長として、マネージャーとして、過ごした日々は記録より記憶になっていた。
 自分がこう言えば彼女はどう行動するか。
結果は今月末に控えた体育祭だ。跡部は静かにけれど確かにその日を待ちわびていた。


 障害物競走、跳び箱で派手に転倒顔面ダイブ。大玉転がし、カーブを曲がりきれずコースアウトで失格。飴食い競走、スタートはいい線いったが飴がなかなか見つからず奮闘も虚しく最下位。
白化粧のまま肩を落としているを何も知らないであろう友人たちが「そんなに飴食べたかったの?」と笑いながら慰めていた。
 団体競技であればまだ可能性があるように思えるが、本人はそれではフェアではないとでも思っているのだろう。その証拠に「さっきのムカデ競走の一位、カウントしてやってもいいぜ」と言った跡部の譲歩をは首を横に振って「まだがんばれます」と跳ね除けた。
 そういうところが——と跡部は思う。
 は馬鹿正直だ。狡とも呼べないような狡ができないほどの、要領の悪い人間である。誰が見てるわけでもないのに赤信号は渡らない。自分も急いでいるのに困ったひとがいれば声をかける。理不尽に押し付けられた雑務でもそれが何かの役に立つのであれば、と手を抜かない。
当たり前のことを当たり前にできる人間は案外少ない。
「好きだ」と告白をして付き合う。そんな当たり前の恋愛観を正面切って跡部に打つけてきたのはが初めてだった。
 答えなどあのときすでに決まっていた。
 跡部はただいつもは部のため、部員のため、その他大勢のためにと動くそのすべてが自分だけに向いているところを一度見てみたかっただけなのだ。揶揄ったのか、と問えば、跡部は「揶揄った」と悪びれもせず肯定するだろう。けれど、それは不真面目な動機からではなく、純粋な愛ゆえだ。

 個人種目最後の徒競走。は今にも泣き出しそうな面持ちで列の後半に並んでいた。オッフェンバックの地獄のジャロップが彼女の不安を煽るようにスピーカーから大音量で流れる。
 次々に走り出し、ゴールする。たかが百メートル。されど百メートル。
 の番がきた。パンッ、と合図ともに歯を食いしばったが走り出す。三コース。現在六人中四位。カーブを曲がる。まだ三位。ただひたすらにゴールだけを見つめたは残りの直線を走り抜けた。ゴール直後全力を出し切ったのか、倒れ込んでしまったを旗係の生徒が引きずるように助け起こした。

「部長! 跡部部長!」

 気を取り戻したが旗係から旗を奪い、生徒会のテントへ脇目も振らず駆け込んでくる。跡部以外の周りの人間は何事かとぎょっとした。

「取りました! 一位、取りました! やりました!」

 そう言って満面の笑みで掲げられたはためく赤い旗には堂々と“1”という数字がくっきりと白く輝いていた。

、よくやった」
「ハイ!」

 なにやら満足げな王様の様子にふたりを祝福する拍手が勝手に巻き起こる。その中心で跡部とは向かい合い、そしてそれぞれの喜びを噛みしめて笑っていた。物語はこれでハッピーエンドだ。


「どうでもいいが、早くその旗返せ。次がつかえてるんだよ」

 一位の旗係である日吉が来るまでその盛大な拍手は鳴り止まなかったが、氷帝学園的にはなんの問題もない。