※柳→ヒロイン→乾風味

「っせんっしたぁー」

 赤也は柳に持っていたノートで無言のまま頭を叩かれた。

「ッテー!」
「赤也」

 柳の圧に耐えかねた赤也がしぶしぶ前に向き直り、もう一度頭を下げる。

「……すいませんでしたぁ」

 柳も自分と同じように頭を下げたのを横目で見た赤也はさすがにハッとなり、今更ながら足を揃えてもう一段階頭を深く下げ直した。

「次はいい試合にしよう」

 赤也と柳に向かい合って立っている乾がスポーツマンらしく手を差し出す。柳がそれに応え、赤也もおずおずと倣った。ほら、と乾に促された海堂の目は明らかに謝罪を受け入れていなさそうだが、先輩の手前大人しく従っていた。

 全国大会が終わり、数週間。
 今日は立海のメンバーが青学に来ていた。合同練習。という名の親睦会。中学最後の全国大会を終えた三年が中心なあたり緊迫感はさほどない。対抗意識を剥き出しにしているのは二年生である赤也と海堂ぐらいのものだ。いや、真田は一方的に手塚に闘志を燃やしているようだが、手塚はあまり気にしていなかった。

「それはそうと教授。俺もお前に会わせたい奴がいるんだ」

 乾の視線が柳たちを超え、誰かに合図を送る。校舎裏からパタパタと駆けてきたのは青学の制服を着た小柄な女子だった。
 いまいちこの状況を理解できていない様子のその女子は柳と赤也に対して疑わしげな視線を向けながら乾のとなりに並んだ。

「誰だかわからないか?」

 乾の問いで彼女の視線がさらに険しいものになる。じーっと、じーっと、穴でも空きそうなほどの見つめられ赤也は戸惑った。

「あのとき捨てたワカメかな?」

 ワカメじゃねぇ! という赤也のマジツッコミに笑うのは彼女だけだ。

「薄情な奴だな。俺は一目でわかったぞ」

 柳が一歩前に出て彼女と向き合った。

「あ、……」

 と溢した彼女の表情がみるみるうちに真剣なものへと変わっていく。
 ひょっとして、ひょっとするのか〜〜。赤也がひとりで興奮していると、

「あのとき捨てたコケシかな?」

 と、ボケが繰り返され、思わず吹き出してしまった赤也が再び柳にノートで叩かれた。

「まったく……どういう教育をしてるんだ、博士」
「これがまた手に余るジャジャ馬娘でね、教授」
「その気持ち悪い呼び合い方……ひょっとして蓮二!?」

 ええーっ! と、彼女が目を見開いて、柳から一歩身を引いた。

「嘘だぁ! 前はあんなに可愛い女の子だったのに!」
「……俺は今も昔も変わらず男だ。信じられないのなら、今ここで俺とお前しか知らないはずの秘密を暴露してやろうか?」
「へ?」
「五年と三カ月と十一日前、貞治のおもちゃを壊して内緒で埋めた場所は——」
「わあー!!」
「なんの話か詳しく聞かせてもらおうか、
「そういえば六年と九カ月と四日前には——」
「わぁー!!」

 そろそろ始めるよー、という幸村の声でその場はうやむやになった。
 突然現れた謎の青学女子はその日の部活を最後までフェンスの向こうで楽しそうに見学していた。



「そっか、乾と幼馴染ってことは柳とも幼馴染なのか」

 ヘイ、お待ち! と寿司がどんどん卓上に並ぶ。今日は特別、ということで立海メンバー、青学メンバーそろって河村寿司に招待されていた。

「もうずっと会ってなかったけどね」

 そう答えた青学女子・はいち早く一つしかなかった甘エビをパクッと口に運んだ。

「ん〜〜すっごく美味しい! テニス部狡い。いつもこんなの食べてるの? 私も青学テニス部入りたい!」

 すっかり打ち解けた赤也が調子に乗って「俺も俺も!」と挙手すると、「へぇ〜そう、赤也、青学行きたいんだ。へぇ〜」と幸村が黒い微笑みで威圧した。他の立海メンバーは触らぬ神に祟りなしと華麗にスルーし、青学メンバーは肩をすくめる。その間、手塚と並んでカウンターに座っていた真田は、河村の主人に顧問の先生と間違えられていた。

「ねぇねぇ、蓮二は今どこ住んでるの?」

 宴の最中でが柳と赤也の間に「ちょっとい〜れて」とやってきた。

「神奈川の湘南地区だ」

 よくわからないといった様子のに柳が自分のノートをバッグから取り出して地図を描いてやる。

「神奈川がこれだとすると、湘南はここらあたりを指す。“湘南”というのは俗名で実際の地名には存在しない」

 へぇ〜と感心はしているが、絶対にわかっていないに柳が目を細めていると、ふたりの間にペンを持った腕がにゅっと現れる。

「神奈川がこれなら、これが東京。そして、これが現在地だ」

 いつのまにか二人の背後にいた乾がと柳の間に「よいしょ」と割り込み、柳が描いた地図に手を加えていく。しかし、それでもが首を傾げると、今度は柳が、乾が、となり、あっという間に綿密な地図が完成した。その一部始終を見ていた越前が「……先輩たちってスマホ知らないんスか」とツッコめば、「たぶんこれが彼らのコミュニケーションなんじゃない?」と不二が笑った。


「あ〜スッゲェうまかった!」

 桃城たちと競い合うようにして三十貫ほど完食した赤也は満足げに両腕を上にあげて伸びをした。
 陽はすっかり暮れ、閑静な住宅街にある河村寿司の明かりは暖簾の奥からでも夜の闇に優しさをもたらしていた。
 河村寿司の前で別れて散り散りになる。とはいっても立海メンバーはほとんどがここから電車だ。赤也を先頭にして最寄りの駅まで宴の余韻に浸りながら歩いた。

「蓮二!」

 大通りの角を曲がったところでのよく通る声が背後から響き、立海メンバーは足を止めた。
 走って追いかけてきたが息を弾ませながら柳を見上げてにっこりと笑った。

「アドレス、訊くの忘れたなと思って」
「貞治が知っている」
「蓮二から直接訊きたいの」

 そう言いながらは自分のスマートフォンを取り出して、柳に渡した。登録しろ、ということらしい。

「LINE IDでもいいよ」
「どちらも登録した」
「それとさっき描いた地図ちょうだい」

 子供がお小遣いをねだるように手のひらを差し出したに柳はため息をつきつつも先ほど乾と競うように描き込んだ地図のページをノートから破り、スマートフォンと一緒に渡してやる。

「……奇襲はよせ」
「それは約束できませんね〜」
「何故だ」
「だってもう貞治とは仲直りしたんでしょ? なら、会いたくなったらいつでも会いに行っていいってことじゃないの?」
「そもそも喧嘩なんてしていない」
「幼馴染の女の子をめぐって〜〜?」
「していない」

 が、つまんないの〜、と唇を尖らせた。
 それから「バイバ〜イ、またね〜」とに見送られた柳たちは再び駅に向かって歩き出した。

「可愛い子だね」

 という幸村の揶揄いに、柳は「どうだろうな」と目を伏せて返すにとどめた。


◇◆◇


「あれ?」

 部活帰り、今日も先頭を歩いていた赤也が真っ先に気づいて、柳を振り返った。柳はすでにため息を吐いている。

「蓮二ー!」

 一週間前青春台で別れたときと同じく元気よく手を振っているのは私服姿のだ。

「お前が今日ここへ来る確率は八十四パーセントだった」
「そんな確率計算する前に会いたいって素直に言えばいいのに」

 ねぇ切原くん、と同意を求められても赤也もたじろぐだけだ。どうやら赤也はが少し苦手らしい。というより慣れないのだろう。柳相手にこうも上から目線の女子は立海には存在しない。
 が白いコットン素材のワンピースの裾をくるりと翻らせて歩き出した。立ち止まったままでいる柳たちに向かって「早く帰ろう」と笑顔で手招く。頭上には金星がぽつんとひとつ空に浮かんでいた。


 賑やかな夕食を終え、自室に戻って本を読んでいると、来客用の布団を抱えたが「おじゃましま〜す」と押し入ってくる。うちの家族はこれを誰も止めないのか、と訝しんでいると部屋の前を通りかかった姉が「ちゃん、蓮二に変なことされそうになったらすぐに大声あげなよ〜」とほくそえんだ。

「明かりを消すぞ」

 抵抗しても無駄だ。柳は読書を諦め、早々に部屋の照明をおとした。明日の休日は一日に付き合わされることになるだろう。まぁそれもいいか、と思いながら柳は自身のベッドに入る。

「ねぇ、豆電球点けて。真っ暗で怖い」
「あいにく俺は豆電球は点けない派だ。それにこの照明は調光できる仕組みになっていない」
「じゃあそこの枕元のランプ点けて」
「それでは俺が明るくて眠れない」

 がむっとして黙った。外の虫が鈴を鳴らす音がよく聞こえる。
 柳はため息を吐いてから枕元のランプを点けた。

「ねぇ、そっちいってもいい」
「いいわけないだろう」
「なんで?」
「狭い」

 ちぇ、とが拗ねた。子供の頃から変わらない。は自分の要求が通らないとすぐこうやってあからさまな拗ね方をする。そんなをあやしたりなだめたりするのが自分たちの役目であったが、それも随分昔のことだ。

「いいとこだね、湘南」
「もう秋だからな」
「なにそれ?」
「夏の湘南は風情に欠ける」
「なにそれ」

 がクスクス笑った。柳も静かに笑う。

「高校は立海受けようかな」
「高等部からの進学はそれなりの偏差値がいるぞ」
じゃ無理?」

 おそらく無理ではないだろう、と柳は推測した。の現状の成績はもちろん知らないが、頭の悪い方でないことはわかる。わざと無知なふりをして自分たちに構ってもうらおうとしていたのも昔から知っていた。

「蓮二」

 甘えた声でが柳の名前を呼んだ。女は自分には逆らえない相手を本能的に嗅ぎ分ける能力があるにちがいない。そんな相手には思う存分暴力的な甘え方をする。狡い、と恨みがましく思ったところでそれこそが相手の思う壺だろう。
 が望んでいることが柳には手に取るようにわかった。それは柳が望むもとと酷似していたからだが、根本的なところが違っていた。
「なんだ」と返事をしながら、ベッドから右手をそっと出す。指先にのぬくもりを感じて、柳は両瞼を閉じた。

「いなくならないでね」

 それは過去に何も言わずに引っ越した自分に対しての「もう、、いなくならいでね」なのか、それともずっとそばにいたのに自分以外の女を選んだもう一人の幼馴染に対して「蓮二は、、、いなくならないでね」なのか、柳はこれ以上今夜は考えないことにした。

「おやすみ、

 は柳の答えを聞かずともきっと知っている。