夏はまだ終わっていないと言い張るように大合唱していた裏山のセミの声が一斉に止んだ。

「白石部長! 私、部長のこと大好きです!」

 あまりにも屈託のない笑顔でハキハキと告げられたもんだから、それが告白だと気付くまで時間がかかった。

「お、おう。……おおきに」
「ハイ!」

 は元気良く一礼をしてから「それじゃあ!」と言って、止める間もなくコートへ駆け戻っていった。
 耳にセミの声が戻る。
途端に暑さが増したように感じられ、どっと滲み出た汗がこめかみを伝って顎まで垂れてアスファルトの地面にポタリと落ちた。


◇◆◇


 結局昨日はほとんど眠れなかった。
考えれば考えるほど自分の気持ちに靄がかかり、出口の見えない無限ループの世界へ。気が付いたら、チュンチュン、爽やかな朝だ。
 枕元の時計の針が指す時刻を見て一瞬焦るも、すぐに落ち着きを取り戻す。
 今日から早起きする必要はない。

「おはようさん!」

 朝から謙也は元気だ。
今朝は早めに学校に着いたはずなのに、何故か謙也もすで学校に居た。
謙也は自分の席でパンをかじりながら、参考書を読んでる。
「白石、風邪は大丈夫なんか?」と心配され、「お、おう、まぁな」となんとも歯切れの悪い返事をした。

「つーか謙也、今日えらい早いなぁ。どないしてん?」
「間違えて朝練行ってん」
「……ドンマイ」
「学校着くまで気づかんくて、コート行ったらみんなにポカーンってされたわ。んで、新部長に邪魔やから出てけって追い出された」

 だから謙也の机の横にはいつも通りラケットバックが立てかけられていたのか。
ただ今朝の自分を思い出して、謙也のことをあながち笑える立場ではないな、と思う。
自分も一瞬、朝練のことがよぎった。習慣とは恐ろしいものだ。

「……もおった?」

 俺の問いに謙也は「そらおるやろ、マネージャーなんやから」と不思議そうに返す。

「応援の声がうるさいっとか言うて毎度のごとく財前に頭はっ叩かれてたで」

 新部長・財前はに何かと厳しい。
仲が悪いというわけではないが、「なんかイラッとする」という割と理不尽な理由で財前がをよくどついてるのを思い出して苦笑した。
に大丈夫か? って聞いたら、『石頭やから大丈夫です!』って笑っとったわ。案外ええコンビかもな、アイツら」と謙也はうんうん、とひとり頷いている。

 教室もだいぶ賑やかになってきた。
受験生といえど、夏休みが明けたばかりの教室はまだ浮ついた空気が漂っている。
麦わら帽をかぶり浮き輪を腰に付け虫取り網まで持参して登校してきたクラスメイトに、謙也は素早くツッコを入れている。
謙也たちといると笑いが絶えない。自分が悶々と悩んでいたことなど隅に置いておける。
 ふと、教室の後ろのドアから中を伺う見知った顔を見つけた。
同じ委員会の後輩だ。誰かを探しているようなので、代わりに呼んでやろうかと彼女を助けるべくイスから腰を浮かした。
彼女と目が合い、一瞬恥ずかしそうに俯かれ、そして切なそうな瞳がもう一度俺に向けられた。
それだけで、俺は彼女の用事を悟り、彼女に気付かれないように小さく息を吐いた。



「白石先輩、好きです。」

 人気のない放課後の校舎裏。吹奏楽部の楽器の音色が遠吠えのように聞こえる。
 目の前の彼女は、「もしよかったら付き合ってください」とか細い声で付け加えて、俺の意識を自分に引き戻した。
 精一杯気持ちを伝えようとしてくれていることは、胸の前で祈るように組まれた小さな手から切実に感じとれる。
けれど情に流されてはいけない。同情は決して愛情には変わらない。

「ごめんな」

 気まずい沈黙が流れる。

「……付き合うてる人とか、好きな人おるんですか?」

 俺が答えあぐねていると、突然そばの茂みがガサガサと揺れた。
そろって身構えると、なんとそこからあちこちに葉っぱを付けたままの千歳が低い姿勢でヌっと現れた。
後輩は野生の熊にでも遭遇したような驚きを見せ、「失礼しますっ!」と飛び逃げていった。

「……お前、何しとんねん」
「むぞらしかコイツと昼寝ったい」

 千歳の腕の中から顔を覗かせたタヌキみたいな三毛猫が、にゃあと欠伸をかましてそっぽを向いた。


にはもう返事したと?」

 ぎょっと目を開いてとなりに座る千歳を見る。千歳は無理やり持ち上げたタヌキ猫の腹に鼻を寄せているが、嫌がられている。

「な、なん、えっ?」
「告白されたとやろ?」
「なんでそれ知ってるん!?」

 千歳はその質問にニヤリと笑うだけで答えてはくれない。

「早く返事してやらんね。あんまり待たせとったら可哀想ったい」

 千歳はフェミニストだが、貞操観念が低い。
「とりあえず付き合うてみたら良かね」と言う千歳を俺は思いっきり睨んだ。

「白石は真面目ったい」
「お前が不真面目すぎや」

 千歳が女子から影で『オオカミ男』と呼ばれているのを俺は同じ学校に通っている妹がいるから知っている。誤魔化されへんで、とさらに睨みを利かせても千歳は何処吹く風だ。

「白石のテニスば邪魔したくなか、っち引退するまで待っとったんやろ? なかなか健気な子ったい」

 千歳の笑みが優しいものになる。
膝に乗せたタヌキ猫を撫でてはいるが、その瞳には別のものを写しているように見えた。
 みんなのマネージャー。みんなの後輩。みんなの妹。
はそういう存在だ。
千歳も例外なくを可愛がっていた。
 俺がそれでも何も答えられずにいると、千歳は立ち上がりぐいっと俺の方に顔を寄せた。そして「白石、ちゃんとせんね。男やろ」と突然ヤのつく職業ばりの凄みを見せた。タッパがある分、すごい迫力だ。
思わず俺の喉からは反射的に「お、おう」と裏返った情けない声が出る。
 最後に「素直になりなっせ」と残して千歳はそのままタヌキ猫を肩に抱え元来た裏山の方へと消えていった。



 がオサムちゃんに連れられて四天宝寺中学男子テニス部にマネージャーとしてやってきたのは、俺が部長になったのと同じタイミング——去年の春だった。

「女テニのマネージャーに志願してあっさりきっぱり断られてるところを渡邊先生に拾ってもらいました! これも何かの縁です。精一杯頑張りますので、よろしくお願いします!」

 とにかく素直で元気な子そうなやな、っていうのが第一印象。
体育会系の精神が既に身についてるらしく礼儀も正しく、特に朝一番の清々しい挨拶は気持ちが良かった。
 聞けば、本人も元々は選手だったらしい。
しかし、中学を上がる前に肘を痛め、選手としての道は絶たれたそうだ。そんなことも暗い表情一つ浮かべることなく話してくれた。
 始めのうちは“女子マネージャー”という響きに淡い夢を抱いていた部員もいたようだが、十キロ以上の備品も一人で難なく運び、「私、腕力には自身があるんです!」と力こぶを自慢するような彼女は、次第に紅一点というよりマスコット的な存在にカテゴライズされるようになったのは致し方ない。
 よく働き、よく笑う。
決して要領が良いというわけではないが、その分自分の手や足を動かしてそれをカバーしようとするタイプらしく、は常に忙しそうに、けれど本当に楽しそうにマネージャー業務をこなしていた。
その姿は、辛い練習をこなす部員の励みになり、いつしかかけがえのない仲間の一人になっていた。

 そんなと一緒に過ごした二年間。
たくさんの思い出はあるが、それはすべて選手とマネージャー、又は部長と部員の域を出ないもので、そこに男女としての淡い関わり合いは一切ないように記憶している。
 好かれている、とは思っていた。ただし、その好意の種類は、“懐いている”という言葉がぴったりで、金ちゃんが「なぁなぁ、白石ィー! ワイと試合しよっ!」と戯れついてくるのと大差ない感情だと思い込んでいた。
 だから、死ぬほど驚いた。先日の告白(と思しきもの)は、俺にとってまさに青天の霹靂だった。

 告白されることに、慣れとまでいかないにしても耐性は十分にあったと思う。
呼び出しを受けた段階で相手にこれから言われるであろう言葉を予測して、自分の答えも用意できた。
申し訳ないと思いつつ、迷ったり揺らいだりしたことは今まで一度もない。
今の自分にはテニスが一番で、仲間と一緒にいる時間が何よりも大切だったからだ。

「し、白石、どないしてん! 大丈夫かっ!」

 の告白を受けて立ち尽くしているところに現れた謙也は俺を見るなり叫んだ。
俺の両肩をガシリッと掴んで「熱中症か? きゅ、救急車呼ぼか?」と慌て始める。
その後ろを何事もないかのように「お疲れサマでしたー」と通り過ぎようとした財前を謙也が引き止め、悪ノリした財前にあわや本気で救急車を呼ばれかかったが、なんとか正気を取り戻してそれを食い止める。

「ほんまに大丈夫なんか?顔めっちゃ赤いで?」
「大丈夫や。ただの風邪やから」


 誰かに告白されて、顔に熱が集まったのなんてこのときが初めてだ。

 今年の初詣。学校の近くの神社に部活のみんなで集合した。
マフラーや手袋、帽子に耳あて、防寒具を総動員させてモコモコとしているは子熊みたいでなかなか可愛らしい。
 それぞれが賽銭を入れて、俺が代表で鈴を鳴らし、みんなで手を合わせた。
たぶん、みんな同じことを神様にお願いしていたと思う。
今度こそ、最後こそ、——
 は誰よりも長く熱心にお参りをしていた。
そのあとも絵馬の四角いっぱいに『全国制覇』と丸っこい字で書き入れ、おみくじは大吉が出るまで引いていた。
そんな彼女の姿をみんなで笑っていたが、内心その一途な応援が俺は嬉しくてたまらなかった。
のためにも必ず勝とう、と神様にではなく、自分の胸に強く誓う。

 どんなに振り返っても、ふたりきりの甘い思い出なんかひとつもない。
いつも騒がしくて、汗と土と涙にまみれた思い出ばかりだ。
でも、自分の思い出の中には彼女の姿もたくさんあって、振り返れば振り返るほど、俺の中での存在は輝きだした。
 みんなのマネージャー。みんなの後輩。みんなの妹。
俺だってそう思っていた。思っていたから戸惑った。もし、思い違いをして、あの笑顔を傷つけたくない。
陽射しを浴びた向日葵のように輝く笑顔を思い出してまた頬が熱を持つ。
……そういうことなのだ。


◇◆◇


「白石部長!」

 昇降口で靴を履き替えていると、遠く向かいからジャージ姿のが走って来る。太陽を背にしたその姿は眩しい。

「よかった、会えて」

 コレ、と言ってが俺にコンビニ袋を差し出した。

「……コーラとチョコレート?」
「財前から部長が風邪引いとるって聞いて買ってきたんです!」
「なんでそれでコーラとチョコなん?」
家では風邪を引いたらコーラとチョコなんです!」

 は謎の民間療法を得意げに披露したあと、「まぁ、私は風邪引いたことないんで、良くわからないんですけどね」と今日一驚く発言をかました。財前ならここで「阿呆は風邪引かんってほんまやったんやな」と意地悪く嗤っているところだろう。
 それにしても、だ。
なんでそんなに普通の態度なのか。昨日のアレは白昼夢か蜃気楼だったんだろうかと疑いたくなるほどの自然体だ。

「……
「ハイ!」
「……昨日のことなんやけど」
「ハイ?」
「……俺のこと、その……ほんまに好きなん?」
「ハイ! 好きです! 大好きです!」

 前のめりに答えるを見て、たまらなくなって頭を掻きむしりながらその場にしゃがみこんだ。
「部長! どないしたんですか?」と俺を心配しても俺に合わせて身をかがめる。
ウォーミングアップ中の野球部の集団が前を通りかかり、こんな校庭の目の前で何をやってるのかと訝しがられているのが乱れた足音でわかった。

「大丈夫ですか? 顔、すっごい赤いですよ?」
「ええ、っとそのな……」
「ハイ!」

 いざと本人を目の間にするとありえないほど緊張する。
これから何が始まるかわからぬというようなきょとんとした顔で見られているのも辛い。

「……その“好き”は、俺と付き合いたいっちゅー意味の“好き”で合うてるか?」
「ハイ! そうです! あれ? 私、そう言いませんでしたっけ?」
「……言うてへんよ」

 彼女が「すっかり忘れてました!」と笑うのを見て力が抜けた。
 今更言い訳のようにしか聞こえないであろうが、返事をしなかったのはわざとじゃない。
普通なら「好きです」とセットでできそう「付き合ってほしい」という要求がの告白にはなかったからだ。
気持ちに対する応えにYESもNOもない。
自分の気持ちを素直に相手に伝えただけ。実にらしい告白だった。

「その……返事、今してもええか?」

 は「ハイ!」とその場で両手両足をピンッと揃えて起立した。


 俺が口を閉じたあと、は「抱きついてもいいですか?」とキラキラした瞳で訊いてきた。そして、それに俺が応える前には思いっきり俺に抱きついた。