※財前→ヒロイン→謙也で悲恋風味
※わりと不健全

 今しがた運ばれてきたビールをは止める間も無く一気に呑み干した。
 安い居酒屋チェーン店だけあって客層は自分たちと同年代が多く、あちこちで酒を煽る妙な掛け声が三分に一回のペースで響いていて非常にうるさい。が、しかしこちらは二人だ。コールなんかするわけもないし、そもそも財前光がに無理矢理酒を呑ませるはずがなかった。
 ぷはぁ、と実にわざとらしく美味そうにビールを呑み干したは、「さぁて」と始めてファミレスに来た子供のような顔つきでいつもとなんら代わり映えのないメニュー表を開き、はしゃぎはじめた。

「どうかしたんスか? ってこっちがわざわざ聞いたらなあかん感じっスか?」

 の作り笑顔が強張る。
 数時間前に「呑みに行こう!」と突然誘われたときから何かしらの不穏な空気を感じ取っていた財前の勘は今のの様子を見るにほぼほぼ当たりだろう。そもそもが財前一人を誘うときの目的は削ぎ落とせば一つ。謙也のこと、延いては恋愛事に関して何か聞いてほしいことがあるときだ。なら、勿体ぶらずさっさと話せばいい。こんな前置き、時間の無駄だ。
 「あのね」とやっと絞り出された囁きは、「こちらお通しになりまーす」という空気を読まない店員のせいでぶった切られてしまった。はつくづく間の悪い人間だ。財前は再び生まれたこの煩わしい沈黙を臆することなく溜息で強調し、押し黙るを容赦なくせっついた。

「言うたよ」

 やっと覚悟を決めたらしいがたどたどしく言葉を紡ぎだすバックでまたコールと手拍子が上がるが、あまり盛り上がっていないのか、コールする人数も先ほどからどんどん減っているし、手拍子も揃っていないため今度はの声を掻き消すほどの力はなかった。どうやら盛り上げ役の奴が勝手に独り空回っているらしい。こちらと同じくとてもじゃないが楽しい会とは呼べなさそうだ。

「私、謙也に『すきや』言うたよ」

 数秒おくれて「へぇ」と財前はいつもの抑揚のない調子で相槌を打った。そして、手元に残っていた一杯目のビールの残りを呷る。生温くて死ぬほど不味い。それ以前に味が薄い。未だかつてこんなに不味いビールがあったか。財前は、やっぱり安い居酒屋はあかんな、などと知ったかぶったような生意気な意見を思い浮かべることで意識の矛先を無理矢理捻じ曲げた。



「先輩、謙也サンのこと好きなんスか?」

 はじめにそう訊いたのがいけなかった。知らないフリをしておけばよかったのだ。そうしたら、きっとここまで面倒なことにはならなかった。財前は中学生だったそのときの自分をかれこれ七年間呪い続けていた。
 だいたい自分はその答えを訊いていったいどうするつもりだったのだろうか。少なくともこんな相談役を買って出るほど自分はお人好しではない。けれど、「誰にも言わんで」と今にも泣きだしそうな顔で懇願されて断りきれるはずもなく、なんなら歪な庇護欲がかきたてられ、虚しい優越感が満たされたのも確かだった。
 の想い人である謙也は阿呆という言葉を額に貼り付けて練り歩いているような男だが、成績良し、家柄良し、いつもとなりにいる白石にはやや劣るがそれでも見た目も充分良し、といった女子からすれば申し分ない優良物件だった。白石の完璧さから醸し出される近寄りがたさとは対極に位置するキャラクター性もよかったのかもしれない。財前が知る限り、謙也には常にと言っていいほど“彼女”の存在があった。
 大縄跳びを飛ぶときのように、必死に想いを告げる隙を狙っているのに、はいつだってそのタイミングを掴み損ねていた。縄が頭上に来た瞬間「今だ!」と思っても、足が竦んで飛び込めない。飛び込めないうちに他の誰かにスッと横入りをされたり、諦めて飛ぶのを待つ列の最後尾に自ら戻ってきてしまったり。せっかくのマネージャーという優位な立場もまったく活かせなぬまま、七年ものあいだそれを繰り返し続けてきた
阿呆すぎる。もっと要領よく生きればいいものを。さらに決死の想いでやっと飛び込んだ結末が大コケなら目も当てられない。


「『お前は仲間やから、そういう風にみたことなかった』やって」
「へぇ」
「めっちゃ困ってたわ。あんまりにも申し訳なさそうにするから、こっちが逆に気い使わなあかんかってん。ひどい話やろ? 人生で始めての告白で振られたのはこっちなんに」
「へぇ」
「もうなんやの? さっきから『へぇ』ばっかり。こんなときくらいなんやオモロイこと言うて慰めてよ」

 ケラケラと笑いながらもの声は微かに震えているし、おそらくテーブルの下の両拳は固く握りしめられて真っ白になっていることだろう。見え透いた強がりは痛々しい。

「とりあえずビール、もう一杯頼みます?」

 財前の問いにこくこくと頷いた拍子にの瞳から一粒二粒光るものが落ちたように見えたが、財前は気づかないフリをして店員を呼びつけた。



「みんなこんなとこでするんやねぇ」

 はホテルの広い浴場を覗きながら感心しきった様子で言った。
 あのまま延々五時間居酒屋で呑んだあと、は「ねむたい」と財前の肩に凭れかかりながら駄々をこねはじめたので、財前は「ほなホテルにでも行きます?」と淡々と、いつも以上に表情筋を使わずに誘った。それに対して「行く行く! 私、そういうとこ行ったことないねん!」と食い気味で付いてきたはおそらく相当酔いが回っているに違いない。

「財前も彼女と来たりするん?」
「……まぁ」
「へぇ〜」

 しばらくすると部屋の探索にも飽きたらしいが上機嫌で財前が腰かけるベッドにやってきた。
バフンッと全身を倒し、天井にも鏡があるのを見つけて笑い出す。何がそんなにおかしいのか涙まで流して大笑いだ。自分が泣いていることに気づいたは腕で顔を隠してそれでもまだ笑い続けていた。

「二十歳過ぎても処女やとフェアリーテールになれるって聞いてたんやけどあれ嘘やってんな」
「ずっと謙也サンのためにとっておいたのに残念でしたね」
「ホンマやな。こんなんだったらさっさとそこら辺の犬にでもくれてやればよかったわ」

 どこまでいってもは謙也しか見ていないし、その謙也はのことをが望む形で見つめ返すことは終になかった。永遠に一歩通行の恋。恋と名付けるには無垢すぎて報われなかった感情をどうする事もできず、笑うことも泣くことさえも上手くできないはそれほどまでに謙也のことが好きだったのだ。
 知っていた。
 わかっていた。
 そんなこと。

「財前?」

 は黙ったまま動かなくなった財前に気付き、不思議そうに名前を呼んだ。の指先がそっと財前の左肘に触れる。それが引き金だった。なんという呆気なさ。今まで閉じ込められていたドス黒い感情が内側からいとも簡単に封を破り一気に解き放たれたかのような感覚が財前を襲う。
 財前は無防備な状態のを押し倒し、そのまま強引に唇を奪った。最初から舌をねじ込み本能剥き出しのまま喰らいつく。
 突然の財前の暴挙にはワンテンポ遅れて抵抗するが、男の力で両腕は押さえつけられ、全身の体重をかけてのしかかられてしまえばどうすることもできなかった。

「ちょ、待っ、なに? なんで?」
「ココはこういうことするところやろ」
「せやけど、それはっ……」
「そこらへんの犬でもええんなら俺でもええやんけ」
「それは冗談……、なぁ財前、こういうんはホンマにすきな子と——ッ!」

 財前の拳がの顔のすぐ横に振り下ろされ、は目を見開く。財前が自分を傷つけるはずない。が今までなんの根拠もなく信じきっていたのは、謙也以外の男を誰も異性として見てこなかったから他ならない。は残酷だ。

「他の女と付き合うても、キスしても、セックスしても、俺はずっとアンタのことばっか考えとった」

 大きな音をたてて大事な何かが砕け散った。
もう後戻りはできない。


 ずっと、だ。ずっと、このときを今か今かと財前は息を潜めて狙っていた。
 彼女に付け入る絶好のチャンス。傷心の彼女に甘い言葉を囁いて、この世界に頼りになる人間は自分しかいないと信じ込ませて、身も心も全部自分のモノにする。まさかこんなに長い月日を費やすとは思ってもみなかったが、必ず来るはずのその一瞬を財前は決して見逃さないようにそばで見張ってきたつもりだった。
 なのにこれじゃあ長年の努力が水の泡だ。自分でもなぜこんなことをしているのか、財前にもわからなかった。あと少しの我慢でいかようにでもできたはずなのに、その“あと少し”ができなかった。
 七年掛けて大コケなんて目も当てられない。
その言葉が巨大なブーメランになって財前の元へ返ってくる。
 組み敷かれて抵抗する気も失せたのか、はたまた贖罪のつもりなのか、今はただ横を向いてすすり泣きながらされるがままのの姿は財前が本当に望んでいた結末からは悲しいくらいかけ離れていた。

「ええ加減俺のこと見ろや!」

 財前はの顎を掴んで力づくで自分の方を向かせた。の泣き濡れた瞳に財前が映る。この瞬間を財前はどんなに待ち焦がれていたか。なのにいざとなると視界がぼやけてうまく見えなかった。
 もう早く楽にしてくれ。体内で渦巻くこの浅ましい白濁の欲望だけでも放出させてほしい。その思いで財前は必死に腰を動かすが、アルコールのせいかなかなか達することができない。地獄だ。好きな女のナカにいるのになんで自分は涙を噛み殺すのに必死なんだろう。
 が何か言おうとしているのに気付いた財前はすかさずそれを荒い口付けで塞いだ。なにも聞きたくなかった。なのにそれでも口の粘膜を通しての感情が財前に否応無しに流れ込んでくる。

 ——ごめんね。

 音にならなかった言葉が財前をより一層惨めな思いにさせた。


 財前は懐かしい学ランに身を包み、見慣れた教室にひとり佇んでいた。一人、二人、と同級生が財前の脇を通り過ぎるなか、「おはよう」と澄んだ声が後ろから聞こえて財前が振り向くと、そこには自分と同じく制服姿のが立っていた。
 は「よいしょ」と財前が立っているとなりの席にごく自然に腰を下ろし、そしてそれから一緒に授業を受けた。授業だけじゃない。休み時間中も、部活中も、そのあとも、財前のとなりには当たり前のようにがずっとそばにいた。
 そんなはずないのに。
 そもそもは一つ上の学年だ。こんなことありっこない。こんな幸せ——
 ああ、これは夢か。
 財前は夢の中でこれは夢だと判って可笑しくなって笑ってしまった。


 財前が目を覚ますととなりには誰もいなかった。見慣れないベッドの上で昨夜のことが瞬時に蘇り、頭を掻き毟る。

「ハイ」

 ベッドが軋んで冷たい感触が頬に触れた。驚いて振り向くと、バスローブを羽織ったが財前に向かってペットボトルを差し出していた。

「怖い夢でも見てたん?」

 財前はその質問には答えず「置いていかれたんかと思いました」と掠れた声で呟いた。
 頭が割れるように痛い。完全に二日酔いだ。

「シャワー浴びてただけやで」

 夢の中で「おはよう」と言ったときと同じ表情では財前に微笑みかけた。昨夜の出来事こそまるごとすべて自分の馬鹿な夢だったのかもしれない。一瞬そんな都合のいい考えが過ぎったが、バスローブの裾からうっかり覗いた生々しい赤黒い堕天の烙印がそれを打ち消した。何もかも自業自得だった。

「もうちょっと眠る?」

 一緒に寝てくれるんやったら。
 なんて口が裂けても言えるはずがないが、財前がもし本当にそう応えれば、おそらくは少し困ったように笑ってから、それでも「いいよ」と許してくれるような気がする。
 はそういう阿呆な人間だ。阿呆で、間抜けで、超が付くほどお人好し。だから、利用されやすい。優しすぎる人間はその優しさに代償を求めないから、しばしば他人からぞんざいに扱われ、損をする。
 守ってやりたかった。そういう理不尽さから。
 今となってはもうそれを自分が望んでいいわけがないけれど。
 の身体を優しく抱いて眠れば、きっとあの夢の続きが見れるだろうが、財前は結局なにも言うことなく、に背を向けて独り身体を丸めて瞳を閉じた。

inspired by music:女王蜂『つづら折り』