おはようサーン! といつも通り元気よく部室のドアを開けると、いつもとは違った雰囲気の視線に出迎えられた。
思わず一歩たじろいだところで背中にドンッと鈍痛が走る。

「あー……スンマセン。つーか、入口の前で立ち止まらんでくれます? ヘタレ先輩」

 財前の不躾な物言いは通常運転だが、他のメンバーの態度は些か気になる。
あの白石までもが眉根を寄せて苦笑い。なんだ? なんだ? 俺が一体何したっちゅーねん!

「ごめんねぇ、謙也クン」

 未だラケットバックすら置けぬまま困惑している俺に対して、小春がやっぱり苦笑いで話しかけてきた。

「なんやねん! みんなして! 言いたいことあるんならはっきり言いや!」

 堪えきれずそう叫ぶ俺に「ほな、言わしてもらうけどなぁ」と小春の後ろからユウジがにゅっと現れた。
ただでさえ目つきの悪いユウジがさらにそれを極めて俺に詰め寄るので迫力がすごい。

「俺の小春にいらん心配さすのやめてもらえますぅ? 小春が優しいからって、なんでお前のヘタレの尻拭いさせられなあかんねん! シバくでほんまに! 俺と小春の貴重な放課後ランデブー返せや、ドアホ!」

 一気に捲したてられ話の内容がうまく頭に入ってこない。
とにかくまったく身に覚えがないので、頭の中のクエスチョンマークが増えるばかりだ。

「もう、ユウくんは黙っときっ! 謙也クン、あんな、アタシ昨日ちゃんと部活帰りにミスド寄ってん」

 ここに突然自分の彼女の名前が出てきたから驚いた。
いや、以前から小春と仲が良いのは知っていたが、わざわざ校外で二人で会うとなると話は変わってくる。
浮気かっ! なんてどっかの誰かさんみたいに怒る気はないが、部活が終わるのを待ってまでというところが少々引っかかる。

「ちょうど部活が終わった頃にな、〈小春ちゃんドーナツ奢るから話聞いてー〉って泣き顔の絵文字付きで送られてきて……。そんで駅前のミスドで落ち合うたんやけど……」

 小春がそこで言い淀んだ。
小春の話を聞いて俺が何より先に浮かんだのは、の身に何か合ったのではないか、ということ。
ひとを呼びつけてまでのSOS。心配でしょうがない。「そ、そんで?」と話の続きを急かした。

「謙也クン、もしかしほんまに全然気いついてないん? ちゃん、謙也クンのことで悩んどったで?」

 まさに晴天の霹靂。
そんな俺の態度に小春がはぁー、と深い深い溜息を吐いた。

「お前の彼女、お前がヘタレやって泣いてたで!」
「一氏、いらんこと言うなやっ! お前、ちょお黙っときっ!」

 小春が男の力でユウジを捻じ伏せる。
その間、俺はさっきよりさらに威力の高い雷に打たれ放心していた。
泣いてたって。しかも、俺のせいって。ヘタレって。

「ほんまはこういうんは本人たちが解決すべきやと思うし、ちゃんにも口止めされてるんやけど、アタシのことストーキングしてたこのカッパと光は黙ってられへんみたいだから、話が変に伝わらんうちにアタシから話すな?」

 財前の「ストーカーはそこのカッパだけで、俺はそのカッパに強制連行されただけっスわ。変な言いがかりはよしてください」という主張は右耳から左耳へただ流れ、ユウジが小春に締め上げられてフガフガ言っているのもどうでもいい。
とにかくショックでショックでしょうがない。

「謙也クン、一昨日ちゃんとおウチデートやったでしょ?」

 小春の話になんとか頷く。
そうだ。二日前、俺の家で普通に会ってるではないか。
もうすぐ定期テストが近いからと机に二人分の教科書とノートを並べて、お互いわからないところを教えあったり。
なかなか充実したデートだと思っていたのは自分だけだったのかと、目の前が暗くなる。

ちゃん、そんとき結構一生懸命謙也クンのこと誘ったのに、キスもしてくれへんかったって……。自分のことなんか好きじゃないのかもって、不安不安でしゃあないって泣いとったで?」

 慌てて「そ、それはっ!」と割って入った。
小春は、わかってるとばかりにそれを制す。

「謙也クンはちゃんのこと大切にしてるってことやろ? わかるで、ちゃんと。アタシにはな。でも、そういうんは本人にはなかなか伝わらへんもんやねん。しかも、それが恋する乙女相手ならなおさらね」

 自分なりに精一杯愛情を注いできた彼女。
それこそすぐに手を出したりなんかして軽く扱われてると思われては困ると真逆のことを考えていた。
しっかり手順番を踏んでいこう。何事もせっかちな俺が彼女のことに対してだけは特に注意深く自制していたのは、なにより彼女を大事にしたかったから。
好きじゃないなんてありえない。

「謙也クン」

 小春が項垂れてる俺の肩にそっと手を置く。

ちゃんを不安にさすのも安心さすのも謙也クン次第やで」

 そうだ。
もし、彼女にいらぬ不安を抱かせてしまったのなら、それを拭うのは自分の役目だ。それは誰にも譲りたくない。
小春の「アタシの大事な友達あんま泣かせんといてな」という言葉にしっかりと頷いてみせた。



 ——放課後。
部活のない月曜日は下駄箱で待ち合わせして一緒に帰るのが習慣だった。そして、今日は月曜日。
ドキドキしながら向かうと、はすでに待っていて満面の笑顔で俺を迎えてくれた。
いつもだったら嬉しい反応なのに、今日はズキリと胸が痛む。

 二人で校舎を出て並んで歩き始めたが、会話は帰路を進めば進むほど少なくなった。
彼女の様子を横目で窺うが、その表情は明るいままだ。だが、それが逆にこの空気には違和感をもたらす。
 どう切り出そうか、何から話せばいいか。
そんな風に考えあぐねているうちに、彼女の方から先手を打たれた。

「……小春ちゃんからなんか聞いたんやろ?」
「えっ! あ、いや、すまん」

 咄嗟に出た謝罪の言葉。
「謙也クン、『すまん』なんて謝ったらあかんよ? ええ? ちゃんは謝ってほしいなんてこれっぽっちも思ってへんのやからね。それに、そんなん言われたら逆にまた傷つけるで」と小春に釘を刺されていたのを今思い出して青ざめて立ち止まる。

「あ、ちゃ、ちゃうねんっ! 『すまん』はなしっ! いや、悪いとは思ってるんやけど、」
「……うん。ちゃんとわかっとるから落ち着いて?」

 慌てふためく俺にどこまでも冷静な彼女。温度差が半端ない。
これは本気で別れの危機なのではないかと、もうずいぶん涼しくなった風を感じながら嫌な汗をかく。

「なんかな、ひとに話し出したら、うわぁって興奮してもうて、ちょっぴり大げさに話してもうてん。せやから、そこまで本気で言ったわけちゃうから気にせんとって?」
「せやけど……」
「こんなんで気まずくなる方が私は嫌やねんけど、謙也クンは?」

 諭すような物言いで顔を下から覗き込まれる。
向けられている瞳の奥に彼女の真意を探すが、手がかりすら見つからなかった。
俺が何も答えられずにいると彼女は「ハイ! もうこの話しはこれで終い!」とくるりと背を向けてさっさと先に歩き出してしまった。
遠のいていく背中が寂しい。

「……は後悔せえへんか?」

 振り向いた彼女は俺が言った意味がよくわからないとばかりに眉をひそめて小首を傾げた。

「俺とキスして、後悔せえへんか? って聞いとんねん!」

 恥ずかしさのあまり目を逸らしたくなるが、それではまた誤解を与えそうなのでどうにか踏ん張った。
 彼女は異性と付き合うのは俺が初めてだと言っていた。なら、キスだってきっと初めてだ。
そんな大事なものを本当に自分が奪っていいのか。情けないながら尻込みしていた部分も確かにある。
でも、それ以上に今思うことは、彼女の口から彼女の本心が聞きたいということ。
怒ってるなら、ちゃんとそれを俺にぶつけてほしい。
自分の気持ちを押しつぶして無理しなくてはいけないような、そんな先のない付き合いにはしたくなかった。
物分りが良いってのは、案外男にとっては頼りにされてないようで悔しいものだ。

「なぁ、ちゃんと言うて」

 全部受け止めてみせるから、もっと素直に俺に甘えてほしい。

「俺がファーストキスの相手でも後悔せえへんか?」

 追い詰めるように彼女の応えを急かせば、「するよ」と厳しさを含んだ声がアスファルトの地面に落ちた。
思ってもみなかった反撃に固まる俺の方に彼女が怖い顔のまま戻ってくる。

「後悔するに決まっとるやろ! このまま謙也クンとキスせえへんかったら、私一生後悔するわ!」

 そう言いながら思いっきり投げつけられたスクールバックをなんとかキャッチする。
「謙也クンの阿呆ぉ」と涙声の彼女が可愛くてしょうがなく、人の往来も気にせずそのまま路上でぎゅうっと抱きしめた。

「あーもう、キスしたいキスしたいキスしたいっ!」
「そんなん俺かてずっと思っとるわ!」
「ほなさっさとしいやっ!」
「心の準備ってもんがあるやろ!」
「乙女かっ!」
「好きやで」

急に静かになった彼女の耳元で「じゃあ早速ここでするか?」と茶化せば「……謙也クン家がええ」と真面目に返ってきたので、俺は彼女の手を取って青信号が点滅している横断歩道を駆け渡った。