氷帝学園男子テニス部は部員も多いが、マネージャーも多い。
しかし、それも今年の夏までの話だ。絶大な人気を誇る王様キングの引退に伴い、多くの女子マネージャーが辞めてしまった。
もとより、そんな理由で辞めてしまうような子は作業員の頭数には入っていないが、そんな子でも十人いれば一人分の仕事くらいはこなせるとし、借り出されることもあった。
それくらいマネージャーも毎日忙しいのだ。部員が多い分、雑用は星の数。
まさに〈雌〉猫の手も借りたいくらいの忙しさだ。
 明くる日も明くる日もコートにトンボをかけ、小石を拾い、二十リットルのスポーツドリンクを最低三回は運び、選手がホームランしたボールを垣根の下まで探し回る。
首から下げた複数個のストップウォッチが走るたび、がちゃがちゃと音をたてうるさいが、そんなこと気にしている余裕はない。
そんな汗だくの三年間だった。
 マネージャーにも担当があり、私は去年の秋まではずっと準レギュラー担当だった。
正レギュラーは広い専用コートがあるが、準レギュラーにはそれがないし、何より人数が違う。
正レギュラーは七人。準レギュラーはその二倍以上。
効率よく練習をするには段取りが命で、その段取りはマネージャーの仕事だ。
実質の仕事量では正レギュラー担当のマネージャーより準レギュラー担当のマネージャーの方がきついなんて声もしばしば聞こえる。
だから、早く正レギュラーのマネージャーになりたい、と同じく準レギュラー担当のマネージャーたちはよく言っていた。
 そんな雑談の輪の中で、はて自分はどうだろう、と思いを巡らす。
意外と自分には今の仕事の方が合っている気がした。

「私は今のままでもいいかなぁ」

 そんな風に溢せば「ってば変わってる」と笑いが起きる。
特に腹は立たない。でもそのあと、通りかかった日吉に、

「向上心のない人間はクズですね」

 と言われたのは、すごく腹が立った。
なんでそんなことお前に言われなくちゃいけないのだ。
なにくそ! とばかりにより一層マネージ業に勤しんでいたら、私は最高学年になるのを待たずして正レギュラー担当のマネージャーに昇格した。
ふん! どうだ! と日吉に視線を送ったが、いつもの冷ややかな眼差しで流されて、やはり腹が立ったのを覚えている。

 正レギュラー担当マネージャーは確かに準レギュラー担当マネージャーに比べて仕事は少なかったが、それは相対的にで、絶対的な仕事の量が多いことには変わりなかった。
忙しい、忙しい、とストップウォッチを首から下げ走っていると、「なんやは不思議の国のアリスに出てくるうさぎみたいやな」と忍足に揶揄われたが、それどころではなかったので特になんの反応もしなかった。
 春になり、三年生になって、いよいよ全国大会へ向けた地方予選が始まった。
途中番狂わせもあったが、なんとか関東大会まではこられた。
関東大会初戦はあの跡部も一目置いている手塚属する青春学園。初戦から気が抜けない相手だ。
 試合はまさか、まさか、の連続だった。忍足・向日ペアが負け、樺地が棄権、そしてジローちゃんまでもが負けてしまった。
ここで勝たねば、というところで跡部が勝利を収め、なんとか首の皮一枚で繋がる。

「日吉出番だ。行ってこい!」

 はい、と凛とした声が静かに響く。
三年生たちからのプレッシャーを一身に背負って、準レギュラーの日吉がひとりコートに立った。
 相手の控え選手は一年生。青学は選手層があまり厚くないときく。
きっと、日吉なら大丈夫だ、と信じてみんなと一緒にベンチで凱旋を待った。
 声が出なくなったのは相手選手が「あと100ゲームやる?」と日吉を挑発したあたりだろうか。
こんなときこそもっと応援しなくちゃいけないのに、と思うのに喉が詰まって声にならない。

「ゲームセット!! ウォンバイ越前 ゲームカウント6−4」

 審判のコールが響き、相手側のベンチが歓喜に沸く。こちらのベンチは時が止まったように静かだ。
 最初に日吉に駆け寄ったのは宍戸だった。
それに続くように鳳、向日、忍足、ジローちゃん、樺地、跡部、監督が日吉を囲んだ。
 本来なら私が最初に行かなくてはいけなかった。
「お疲れ様」
と、いつものように。それは、勝っても負けても変わらない私の仕事。
なのに、私の身体はいつまでたってもベンチに座ったまま動けなかった。こんなこと初めてだ。
日吉に渡すはずのタオルを固く握りしめ、下唇をかんで自分の感情をなんとか堰き止める。

 こんなのマネージャー失格だ。

 それからしばらくは表面上何事もなくマネージャーを続けた。
運良く、全国大会にも行けた。また青学に負けたが、この間ほどは動揺しなかった。
ただ、日吉にタオルを渡す際、顔は上げられなかったが。



 引き継ぎ用の資料を作るために久しぶりに部室に顔を出したが、時間帯がいけなかった。
部活が始まる前にささっと済ませてしまおうと早めに行ったところ、部室の前で会いたくなかった人物とバッタリと出くわしてしまう。
目を見開きお互いバッチリと目が合ってしまった。
ハハハッ……と乾いた笑いを浮かべその場を取り繕い、隙を見て逃げ出そうと試みるも、そこはさすが古武術を心得ているだけある。全く隙がない。
無意識に身体が後ずさり、自分の後ろ足が砂利をすりつぶした。

「なんなんですか」

 腕を掴まれ、動きを封じられ、このまま睨み殺されるかと思えるほどの眼力で心臓を串刺しにされる。
耐えられず私は顔を思いっきり背けた。

「関東大会後からあからさまに俺のこと避けてるでしょう」
「そ、んなこと……」

 ない、と強く言い切れない自分はなんて馬鹿正直なんだろう。

「俺が負けてから、俺のこと避けているでしょうって言ってるんです」

 一歩踏み込んだ日吉がさらに間合いを詰めて、「気付かないとでも」と凄む。

「いや、えっと……、それは、」
「なんですか。言い訳ですか」

 あんな一年坊主に負けて見損ないましたか。それとも負けた上に泣くなんて醜態さらしたことに呆れたんですか。
そう畳み掛けられ、圧倒される。
 そのいつもとは明らかに違う後輩の様子に恐怖より、不安を感じた。
先輩を先輩と思わぬ生意気な態度は健在だが、こんな風に感情を露わにする日吉は珍しい。

「ひ、日吉?」

 簾のように垂れる前髪のせいでその表情は見えない。
見えないから、一層心配になる。

「言いたいことがあるんだったら、はっきり言えばいいでしょう」

 絞り出された言葉は刺々しくも弱々しい。
自分の都合だけで勝手に避けていたことを今更ながら強く後悔した。
そうだよな。どんな相手であれ、急に明らさまに避けたりなんかしたら、傷つくよな。
自分のことだけで精一杯で、相手のことを思いやる余裕がなかった。
ごめん。——ごめん、日吉。

「……ごめんね」
「何がですか」
「だから、いろいろ……変な態度とって、ごめん」
「それは……あんな一年坊主に負けて見損なったからですか? それとも負けた上に泣くなんて醜態さらしたことに呆れたからですか?」
「違うって、……違うよ」
「だったらなんだって言うんですか!!」

 答えをはっきり聞くまで許さないとばかりに腕を掴む力が強められる。
ここは嘘をついてひとまず凌ごうか。だがしかし、私のスキルではすぐに見破られて、さらに相手の不信を買うのがオチ。
それは嫌だ。
これ以上嫌われたくない。

「日吉が、負けたときね、」

 言葉の切っ先が震えているのが自分でもわかった。

「悔しいとか、もうこれで終わりなんだとか、そんなことより寂しいって思っちゃったの」

 もう一緒にいられない。
そう思った。引退したからって次の日から急に会えなくなるわけじゃない。
学年は違えど、同じ校舎。すれ違うこともあるだろう。
一年待てば、きっとまた高等部では同じ部活だ。
頭ではわかっていても、気持ちがそれでよしとしない。
 毎日会いたい。ずっとそばで見ていたい。その活躍を一時も見逃したくない。
 なんで日吉に罵られるとあんなにも悔しくて見返してやろうと思ったのか。
 なんで日吉がコートに立つと自分のことのように緊張するのか。
 なんで日吉の涙を見てこんなにも心が揺さぶられたのか。
 私は最悪のタイミングでその理由に気づいてしまった。
氷帝テニス部が全国大会の切符を手にできなかったことより、日吉と少しでも距離ができてしまうことに打ちのめされてる自分はマネージャー失格だ。

「それがどうして俺だけを避けることに繋がるんですか?」

 日吉の目が訝しげに細められる。まだ何か隠しているだろう、と暗に問うてるように。
たっぷりと間を開けてから「……好きだから」と蚊の鳴くような声で漏らせば、「ハ?」という日吉の声が空気を裂いた。

「私が日吉を好きだからだよ。だって部活のことより自分が好きな人と離れることが寂しいなんて思ってる自分勝手なマネージャー、日吉は軽蔑するでしょ?」

 鼻の奥がツンと痛み、視界が震えた。
 軽蔑するでしょう? なんて試すような言い方をした自分にも嫌気がさす。
私は知っているじゃないか。日吉がこんなときどう答えるか。普段は嫌味ばかり言う後輩でも、こんなときはちゃんと人を気遣える優しさを持ち合わせていることを。

「……いい加減にしてください」
「うん……ごめん。勝手なことばっかり言って。日吉はなんにも悪くないからもう気にしないで全部忘れて」

 無理矢理笑顔を貼り付けて、久方ぶりに顔を上げた。
上げきったところで、固まる。日吉の瞳が怒りに震えていたからだ。

「『もう気にしないで』? 『全部忘れて』?」

 日吉の怒りの矛先がいまいち掴めず戸惑う。

「俺の気持ち勝手に決め付けないでください! 俺だってアンタが——」

 日吉が何か言いかけたその瞬間、ふたりのすぐ脇の部室のドアが突然内から開いた。

「ごめーん、ひよちゃん! 俺、もう無理!!」

 弾丸のように中から飛び出したジローちゃんが私たちをすり抜けどこかへ駆けていく。
それを視線で見送ったあと、開きっぱなしになっているドアを恐る恐る窺えば、案の定そこからは他のテニス部の面々が次々と顔を出した。

「すまんな、日吉。ええとこやったのに。でも、自分らラブロマンスするなら場所は選んだ方がええで」
「ふんっ、激ダサだぜ」
「まぁまぁ、宍戸さん。でも、よかったね、日吉! 先輩に避けられてるってずっと落ち込んでたもんね!」
「つーか、ジローの奴、トイレ間に合ったのか?」

 な、とか、う、とか、あ、とか、言葉にならない声が私と日吉の口から漏れる。
先ほどの一部始終を他人に聞かれてたかと思うと顔から湯気が出そうだ。
どうにかして彼らの口止めしなくては、てゆーか長太郎が言ってたことは本当? それよりなにより、さっき日吉は何を言いかけた?
混乱が混乱を呼び、自分の脳みその処理能力が追いつかない。
 そして、最後に部室から出てきた跡部が私たちふたりに不敵な笑みを向け、高らかに指を鳴らしてみせた。
嫌な予感しかしない。

「樺地、赤飯を用意しろ!」

 やめろ! やめて!
日吉と私の叫び声がピタリと重なった。

inspired by music:Perfume『Next Stage with YOU』