※登場はしませんが、ヒロインには柳とは別の恋人(モブ)がいます

柳が連れてきてくれたのは会社の入ってるビルから駅とは反対方向に少し進んだ地下のバーだった。
大通りに面しているのに見過ごしそうな入口の扉には店名すら書かれていなかった。
暗闇に溶け込んだ真っ黒な扉は、選ばれし者にしか開けられない魔法でもかかっていそうな雰囲気で、確実にひとりでは来られなかった店だろう。

店内は入口からは想像も出来ないくらい広い空間が広がっており、金曜日の夜ともなれば多くの席が埋まっていた。
柳は迷いなくカウンターの端の席に向かい、バーテンダーと目で挨拶を交わしてから、私に「何にする」かと尋ねてきた。

二人そろってロングカクテルを頼み、「お疲れ様」と軽くグラスを合わせてから、口に運んぶ。ライムの爽やかな香りが靄を払うように鼻を心地よく刺激して、疲れている身体にスッキリとした辛めのアルコールが染みていく。
気をつけないと酔いすぎてしまいそうだ——と解りながらも久しぶりのアルコールはとても美味しく、このハイセンスなバーの空気もあって、グラスの水位はどんどんと下がっていった。


「本当びっくりだよ! だって普通にいつも通り出社したら、「本日をもちまして一切の営業を停止します」だよ。潰れるときってほんと突然なのね。急すぎて「あぁ、ドラマの第一話でこんなシーン見たことあるわ」とか他人事のみたいな感想しか浮かんでこなかったもん」
「まさに事実は小説より奇なり、だな」

柳がグラスを傾けながら喉の奥で笑う。

久しぶりなのはアルコールだけではなかった。
柳蓮二——高校の同級生であるこの男——と顔を合わせたのも卒業以来だ。

まさかのまさか。転職先の会社の別の部署にこの男がいたのである。
部署が違ったためその存在に気づくのに遅れたが、たまたま昼休みにエレベーターで鉢合わせをしたことで互いの存在を知った。
それがつい三日前だ。

「まぁ、失業保険も出るし、それなりに貯金もあったからさ。そういえば一週間以上の休みなんて社会人になってから取ったことないし、大人のロングバケーション! なんて最初ははしゃいでたんだけど、意外とそういう遊ぶだけの生活って二週間もしない内に飽きちゃって。人間って不思議ね。仕事してると「あーなんでもいいから休みたい!」って発狂しそうになるくせに、仕事してないとしてないで「あー健全に働きたい!」って急に無駄な使命感に追われるみたい」

あのときは、挨拶ついでに連絡先を聞かれ、「では今度飲みにでも行こう」「行こう行こう!」という社交辞令を交わしてから分かれた。
柳とは部署も違うしフロアも違う。だからそれから今日まで再び顔を合わせることもなかった。
久しぶりに話したい気持ちは有れど、その意思をこちらから示すのは避けた方がいいと判断して、自分から連絡することはできなかった。
そう思っていたところに、突然の誘い。
〈今夜空いているか〉というシンプルな言葉と彼の名前が画面に表示されているのを見つけて、まず最初に浮かんだのは嬉しいという感情だった。

「相変わらずお前らしいな」

柔らかく笑う柳こそあの頃と変わらない清廉さを保ちつつ、大人の男の色香も漂わせていた。
これは女がほっとかない。事実、職場の同僚や若い子たちはもれなく彼の存在を知っていたし、さらにもっとよく知りたいと狙っている子も多いようだ。
うっかり高校の同級生だとバレようものなら、合コンのセッティングをせがまれそうなので、自分と柳の関係は隠し通すことにした。

会話が続くとアルコールもその分進む。
柳が「同じものを」と三杯目を頼んだので、「私も」とそれに倣った。
今夜は楽しいお酒だ。懐かしさが私を深緑の制服を着ていた無邪気な少女に戻す。

「良いのか、出なくて」

柳が私の鞄——の中の震える携帯電話——を一瞥した。
「あぁ、うん……」と、なんとも歯切れの悪い返事が自分の口から漏れる。
なんて間の悪い。

「男、か」

ズバリな答えに、確率達人マスター・柳蓮二が健在なことを思い知る。

「柳は? 彼女、いないの?」

言いたくないことは、言わなければいい。
多少狡いとは思いつつ、話を逸らすために反撃をした。
ニヤニヤとふざけた調子で柳の反応を下からうかがえば、あっさりと「いない」と返される。

「長いのか?」

言いたくないことは、言いたくない。
ただあんまりにも頑なに拒むのも、勘違い女のようで嫌だ。
当たり障りない上辺だけのよくある話を場つなぎ程度に話せばいいか、と舐めていたウィスキーから唇を離した。

「まぁ、それなりにね。大学生のときからだから」
「結婚は?」
「どうだろ」

つくづく嫌な話題だな、と思う。
会社が倒産したことを両親に電話で報告したとき、「なら結婚すればいいじゃない!」とさも名案とばかりに言われて、「あのねぇ!」と怒鳴ってしまった自分が蘇りそうだ。

「どうやらうまくいっていないようだな」
「……なんで?」
「お前のことだからどうせまた自分を押し込めて勝手に窮屈になっているんじゃないのか?」

見透かしたような物言いが勘に触る。
久しぶりに会ったただの同級生が今の私の何を一体知っているというのか。

「何それ? 別にうまくいってないわけじゃないよ。逆に長い付き合いから気兼ねしないでお互い自分のことに打ち込めるし、バランスの取れた大人な関係だよ」
「過度な謙虚さは美徳とは言えないな。それに、普通“それなりに”交際している男がいる女はもっと相手の男の不満を明け透けに言うぞ。ただそれは他人が聞けば惚気の一種だがな」

一体どこで統計をとった論理だ、それは。
しかし、ならば盛大に惚気てやろうじゃないか、と柳の話に乗っかった。
要は不満を言えばいいのだろう、不満を。そんなの簡単だ。

「向こうも仕事あるし、今資格の勉強もしてるから忙しくてなかなか会えないんだよね。今回のことも、相談しようと思ったけど……そんな状況だから全然できなくて。「大丈夫?」「うん、大丈夫」なんて当たり障りない会話、電話でして終わり。本当は急に無職になって不安だったし、なんなら「じゃあ結婚しようか」なんて言ってくれるかな? って一瞬でも夢見た自分を湘南の砂浜に埋めたいね」

面白いくらいスルスルと言葉が溢れ出てきた。
一度堰を切って吐き出された負の感情は、芋づる式に別の隠していた不満を掘り起こす。
あ、これまずいかも。さっきから頭の中では警告音が鳴り響き、その音は徐々に大きくなっているけど、もう止まらない。

「同僚と釣りとかバーベキューとか行くくらいなら、私と会ってよ! って言いたくもなるよ。言わないけどさ。そりゃあ会社の付き合いもあるだろうし、付き合ってるからって休みの日は全部私に使わなくてもいいとは思うよ。でも彼氏なら、“ここぞ”ってときにはそばにいてほしいじゃん? 今が“ここぞ”ってときだってわざわざ言わないとわかんないのかな? って。アレ? もしかしてこの人全然私に関心ない? って。言わなきゃわかんないって言われそうだけど、自分でもどこまでが口に出していい我儘なのか線引きできなくて、そのうちそんなことに悩んでいる自分も惨めに思えてくるし、もうほんっとヤだ」

言い切ってバーカウンターに突っ伏した。
酔って管を巻くなんて最悪だ。
いい歳した女が何をやっているんだ。いくら煽られたからって、これは呆れられても文句は言えない。

「先刻の話には続きがある」

柳の平坦な声が落ちてくる。
私は顔を上げられないまま、それを受け止めた。

「交際相手の不平不満を言って惚気になるのは同性や極親しい友人間のみであって、その話題を異性にする場合は付け入られる隙を与えているようなものだからよくよく話す相手は気をつけた方がいいぞ」

それをお前が言うか、という話である。
しかし、この話題。以前どこかでもしたことがあるような——。
まだ学生服を着てた頃、放課後の教室で、やっぱり誰かにこうやって当時付き合っていた相手の愚痴を聞いてもらったことがあった気がする。

「そんな男、やめて俺にすればいい」

そうそう、そのときも確かそんなことを言われた——。
ハッとなって上半身を勢いよく起こすと不敵に笑った柳と目が合う。
どくんっどくんっと血液が心臓というポンプに押し出されて全身に駆け巡る。耳の奥で太鼓が鳴ってるようだ。
あぁ、しっかり自衛していたはずなのに、酒が進むうちにすっかりガードが解けていたようだ。

柳の筋の入ったい大きな掌がスカート越しに私の太腿に置かれる。
蛇に睨まれた蛙。動けない。視線はお互いを捕らえたまま、呼吸すら許されない。
時が止まったかのような錯覚に陥るが、カランッとグラスの中の氷が溶けた音で現実に引き戻される。

これは夢じゃない。過去でもない。

「……柳ってほんとタイミング悪い」

太腿に置かれた手をやんわりと退かそうとするも、反対に手を包まれるように上から重ねられた。
もう逃がさない、とでも言いたげな力で握られて身体が強張る。

「良いの間違いだろう。お前が弱っているのを見計らって、漬け込もうとしているんだ」

こんな展開になるなんて——本当に考えてもみなかった?
かつて自分のことを好きだった男と大人になって再開して何も期待しなかったかと自分を問い詰めればきっとすぐにボロがでる。
最初から彼氏がいるとサラッと言えなかったことが何よりの証拠だ。

簡単に誘いに乗る女だと柳に軽蔑されたくなかった。今も昔も、私が測りにかけているのは自分のプライドや体裁だけだ。
交際相手への罪悪感なんかじゃない。
私はそういう女だ。

「全て俺の所為にすればいい」

まさに悪魔の囁きとでもいうべきか。
戸惑う私を追い詰めるように艶のある声が耳を舐めて、しなやかな指が手の甲を愛撫した。
私は、自分の身体の芯が潤んだのを感じた。


夜はこれから
Friday, 03 June PM 11:23