※いつも以上に未来捏造

「ヤバイ、ヤバイ、ヤバイ、ヤバイ、——っダっ!」

 慌てていると足の小指を思いっきり玄関に備え付けてある下駄箱の角にぶつけた。
涙目で自分の小指が無事かどうか確かめようと目線を足元に落とすと、ストッキングがふくらはぎあたりで電線しているのを見つけてしまった。オーマイゴット。
手に持っていた焼かれていない食パンを口に詰め込み、急いでクローゼットに替えを取りに戻る。
履き替えてる時間はない。着いてからトイレで着替えることにしよう。

〈手塚選手、越前選手に続き日本人選手の活躍が目覚ましいですね——〉

 消し忘れたテレビに一瞬心を奪われるが、すぐに我に返りソファに転がっていたリモコンで電源を落とす。
っと、本当にこんなことしている場合じゃない。
携帯と家の鍵、それから鞄をひっつかんで家から飛び出した。
走って、走って、なんとかいつもの電車に間に合う。これで遅刻は免れた。
ほっと一息。と、言いたいところだが、朝の通勤ラッシュ。押し潰されないようによろめきながら、自分の場所を確保するにも一苦労だ。
 ふと、人、人、人、の合間から小さなモニターに流れている車内ニュースが目に入った。

〈切原赤也全米オープン決勝進出 三時間のタイブレークの末、初の決勝切符を勝ち取る〉

 そんな見出しとともにラケットを豪快に振っている躍動感溢れるワカメ頭の写真が映し出されていた。
 昨夜、といってもほぼ今日の早朝にあった赤也の試合。結局最後までそれを観戦してしまって、私は寝坊したのだ。

 ——ねぇ、赤也。

 懐かしい。最後に赤也に会ったのは五年前だ。
赤也は高校卒業と同時にプロの道を選び、その拠点を海外に移すことにした。
日本を発つその日、テニス部の面々と空港まで見送りに行ったのを昨日のことのように覚えている。

「で、赤也の酷い英語、ちょっとは上達したわけ?」

 幸村がいつものように赤也を揶揄う。

「しました、しました! マイ ネイム イズ アカヤ! アイム ファイン センキュー! エンジュウ?」

 赤也が鼻の穴を膨らませながら、どうだ! と言わんばかりの顔で渾身の英語を披露した。
柳が目元を覆い、柳生が苦笑いしてる。

先輩に勉強教えてもらったの、俺、一生忘れません!」

 赤也が私に満面の笑みを向けながら、力強く宣言した。
成果があったかどうかは怪しいが、赤也が留学を決めてから英語の勉強を必死にしていたことは私が一番よく知ってる。
 毎日毎日、ハードな部活のあと、二人で部室に残って延々と猛勉強。
実際に使えるような英会話を中心に教えたつもりだが、彼が中一から身につけたカタカナ発音はとうとう治せなかった。
それでも、よく頑張ったと思う。
中学生の頃なら、「俺、日本人だからいーのっ!」と最初から放り出していた教科書や参考書は、今ではラインマーカーや書き込みがいっぱいでボロボロだ。

「つーか、何。お前、結局こいつに返事もらったの?」

 ブン太が嫌な話題を振ってきた。

「もらってませんよー! 先輩、俺が「好き」っつっても、いっつも「はい、はい、ありがとー」って誤魔化すんだもん!」
「別に誤魔化してるつもりは……」
「え、じゃあOKなんスか!」
「あ! ほら、もう時間なんじゃない?」
「ほら、また誤魔化した! 先輩のバカ」

 赤也が口を尖らせ私を非難する。いつものことだ。だけどその『いつも』は今日で終わる。

「赤也、本当にそろそろ時間だ」

 待合ロビーに赤也の乗る飛行機の搭乗アナウンスが響き渡るのを聞いて、柳が赤也を促し、ジャッカルが「じゃあな」と手荷物を渡してやる。

先輩」

 行ってきます! と去りかけた背中がくるりと振り返って、私の名前を呼んだ。

「俺が向こうで優勝したら、——」

 馬鹿みたいな口約束をしたと思う。
あれから月日は流れ、『俺が向こうで優勝したら』が現実のものになろうとしていた。


◇◆◇


「羽根が生えているように見えませんか?」

 赤也と真田がラリーしているのをフェンス越しに眺めながらドリンクの準備をしていたら、突然柳生に背後から話しかけられて驚いた。
そろそろ休憩時間になる。柳生はそのタイミングに合わせて練習試合形式の試合をきっちり終わらせたのだろう。
柳生比呂士はどんなときも五分前行動が当たり前の男である。

「え? 何の話?」

 逆光で光るメガネをクイッと持ち上げながら微笑する柳生を訝しむ。

「切原くんのことです」
「あぁあ、悪魔化とか天使化とか、そういう話?」
「いえ、そうではなくて」

 柳生はタオルで丁寧に自分の首筋や額の汗を拭いたあと、「手伝います」とスポーツドリンクの入ったジャグ(内容量:10リットル)を私の代わりに運んでくれる。さすが紳士ジェントル

「どこまで強くなるんでしょうね、彼は。このままいけば真田くんや幸村くんを倒してしまうのもそう遠くないかもしれない」

 二人同時に視線を赤也に移した。
ちょうど赤也のスマッシュが真田側のコートに決まったところで、スパーンッと小気味好いインパクト音があたりに響く。
他の組みはぼちぼち休憩とばかりにコートから引き上げているのに対して、赤也VS真田のコートはいつまでも終わりが見えない。
おそらく両者ともボールと、ラケットと、ネットと、それから互いの姿しか意識にないのだろう。

「私は、純粋に羨ましいです。打算や計算なしに自分の道をまっすぐに進める彼が」
「赤也の場合、単純にそれが出来ないの間違いなんじゃなくて?」

 柳生が私につられて笑いながら「そうだとしても」と会話を続ける。

「きっと切原くんは、自分の翼でどこまでも高みへ昇っていけるんでしょうね」

 柳生の赤也を見つめる眼差しは、何か眩しいものを見るかのように細められていた。
 羽根が生えてる——柳生みたいにそんなポエムを綴ったことはないが、確かに私も赤也はいつかきっと遠くへ行ってしまうだろうな、と直感めいたものがあった。
いつまでも私の後ろをついて回り、無邪気に「先輩」と呼んではくれなくなる。
あと数年もしないうちに、私の横をすり抜けて手の届かないところへ行ってしまうだろう。
 だから私は赤也の気持ちを冗談にして、やんわりと拒み続けた。
赤也がここから巣立つとき、笑顔で送りだせるようにするにはそれがベストな選択だと思ったからだ。
赤也にとっても。私にとっても。

 しかし五年経った今でも、それが正しい選択だったのか、そんな疑問が自分の胸にどかりと腰を下ろして我が物顔で居座り続けているから困ったものだ。


 ——ねぇ、赤也。
私ね、今、学校の先生してるんだよ。英語の先生。しかも立海で。
赤也に英語を教えてるとき、「先輩、教え方うまいっスね」って言ってくれたの間に受けたの。笑っちゃうでしょ。

 ——ねぇ、赤也。
それからね、私テニス部の顧問もしてるんだよ。女テニだけど。
部員には、赤也のファンの子、いっぱいいるよ。
赤也の母校だからって受験してテニス部に入った子までいるんだから、私驚いちゃった。
赤也のテニスは観てるとわくわくするって、キラキラした瞳で語る子たちは、いつかの赤也みたいに一生懸命部活で汗を流しているよ。

 ——ねぇ、赤也。
赤也、あの約束、覚えてる? なんて言ったらどんな顔する? さすがに引くかな?
でもね、もしもう一度赤也が「先輩」って呼んでくれたら、今度は振り向いて返事をしたいって思ってる。「そんなの今更!」って怒ってもいいよ。
でも「おめでとう」とだけは言わせてね。
 失う前から失うことに怯えて、差し出してくれた手におちゃらけてハイタッチなんかしちゃってた高校生の私は、赤也よりずっと子供だったね。ごめん。



 今日もまた寝不足だった。理由は二日前とほぼ同じ。
ただちょっと違うのは、今度の試合中継は夕刻からで帰宅が間に合わず、録画予約での観戦になってしまったことだ。
家に着くまで試合結果を耳に入れてしまわぬように神経を尖らせ、最後はもう走って家に帰って、手なんか洗わずテレビのリモコンの再生ボタンを連打していた。
 一回目の再生は、とにかくハラハラドキドキ。
二回目の再生は、さっき興奮して見逃してしまったところを重点的に。
三回目の再生は、夕食をとりながら流し観で。と、言いつつ気がつくとすぐ箸を持つ手は止まっていた。
 最後のスマッシュが決まってガッツポーズするシーンは何度観ても胸に感動が込み上げてくる。
おめでとう、赤也。やったね、赤也。すごい、すごい、ほんとにすごい! 頭を撫でくり回して褒めてあげたくなる。
 場面が変わり、ヒーローインタビュー。記者からの質問に端的に答える赤也は、ずいぶん大人になったように見えた。
昔だったらカメラなんか向けられようものなら、Vサインなんかしちゃってきっと真田あたりに怒られていたことだろう。
私の知らないところで赤也は成長したんだな、と思うと切なくなる。
わかっていたけど、五年という月日は私が想像していた以上に長いのだと痛感せざるおえなかった。
 そんな風に思いを巡らせているとあっという間に夜は更け、必然的に睡眠時間は削られ、結果朝寝坊。社会人失格。ハイ、御尤も。
また慌てて支度をするはめになって、今度はこの間とは反対側の足の小指をぶつけてしまった。ジーザス!

 学校の廊下を歩きながら乾燥気味の瞳をなんとか自分の涙で潤そうと瞬きをしてみるけど、効果は薄い。
欠伸を噛み殺しながら自分の担当のクラスのドアを開けると、近くにいた女子生徒に早速「先生、くまマジヤバイよ。どうしたの?」と揶揄われる。
まだ私は歳が若い分、親しみやすいし、舐められやすい。
特に女子生徒との距離感は難しく、仲良くはしたいけど友達ではないし、友達ではないけど敵でもないことを知っておいてほしい、と一方的に願っている状況に近いのが歯痒い。

「はーい、チャイム鳴り終わってるんだから、席ついてね。それから今日の日直は誰? 日誌取りに来なかったでしょう」

 バンバンと黒い硬い表紙の日直日誌を手のひらで叩いて注目を集めようとしても、なかなか窓際の生徒たちが座ろうとしない。
「え、うそ」とか「マジで」とか「ホンモノ! ホンモノ!」とか、飛び跳ねながら騒いでいる。

「ねぇ、ちょっと! もう、何? 外になんかあるの?」
「ほら、先生、アレ! あの人!」

 不審者でも校内に侵入したんだろうか。確認のためしょうがなく私も窓際に寄って、彼らが指差す方向に視線を向けた瞬間、持っていた日直日誌が腕から滑り落ちた。
 でっかいスーツケースを引きずって、サングラスのままキョロキョロと辺りを見回している姿は不審者に見えなくもない。
だがしかし、そのウネウネとした海産物を思わせる髪型が、それが誰であるかをここにいる全員に知らしめていた。
 大勢に校舎から見下ろされていることにやっと気がついたのか、その人物がサングラスを外して上を見上げた。
そして、その顔いっぱいに喜びの表情が広がる。

せんぱぁーい!」

 その人物・切原赤也は、両腕を根元からブンブン振って私の名前を大きな声で叫んだ。
生徒たちが「先輩って誰?」とどよめく。教師の下の名前なんてどうでもいい情報、彼らは覚えていないのだ。

「俺、優勝したから、先輩のこと、迎えに来たよー!」

 あぁあ、馬鹿也。なんで学校に来るんだ。本当、馬鹿。
でも、でも、嬉しい。あぁあ、でもここ学校しょくばだよ、馬鹿。
寝不足の頭にはキツイ混乱の波に襲われ、心臓が爆音を鳴らし私の身体を壊しにかかる。

せんぱぁーい! 結婚しよー!」

 状況を把握していないにもかかわらず、生徒たちが「キャー」と歓声を上げて拍手をしながらより一層盛り上がった。
滲む視界にあの頃と変わらない笑顔を捉えたまま、私は意を決して大きく息を吸い込む。この割れんばかり歓声に埋もれてしまわないように、私も負けない声で返事をしなくてはならないからだ。

 もちろん答えは、——



先輩、俺が向こうで優勝したら、先輩のこと迎えに行くから、そんときは俺と結婚して!」
「あーはいはい、優勝したらね」
「あ! 今、言いましたね! 絶対っスよ! 約束!」