※ヒロインは跡部の婚約者
※ヒロイン浮気まがいのことしてます
※若干不健全

 群青が薄らぎ仄かに赤みがさすのは、狭間のひと時だ。
窓枠が額縁の役割を果たしている目の前の大きなキャンパスは、見事にその美しさを切り取っていた。
この瞬間が永遠になればいい、とはもう何度胸の内で願ったかわからない。

 そっとクイーンサイズのベッドから抜け出して、落ちていたシャツを素肌に羽織る。
そのぱぱペタペタと裸足でキッチンまで向かい、冷蔵庫から五百ミリのペットボトルを取り出して、再び寝室にしている奥の部屋へ静かに戻った。
ベッドに浅く腰をかけて、冷たいミネラルウォーターを喉に流し込む。
 ベッドサイドで女優が気だるげに喉を潤すシーンなんて手っ取り早く事後を示唆するためだけの誇張されたあざとい情景描写だと決めつけていた無知で幼い自分をふと思い出した。
運動後の水分補給? それもあるかもしれないけれど、どちらかというと喘いだときに意図せず口呼吸になり、その所為で喉が乾くのだ。
そのことをは最近身をもって学んだ。

「なぁ、俺にもくれへん?」

 の視線は背後から伸ばされた逞しい腕を伝って、今しがた起きたと思われる忍足にたどり着いた。
忍足はが返事をする前にペットボトルを攫い、口をつける。忍足の喉仏が三度上下運動を繰り返すのをは黙って見届けた。

「今、何時?」
「んー……、五時十二分」
「あれ? 目覚まし鳴らへんかった?」
「うるさいの嫌いだから鳴る前に止めた」
「なんでやねん。それ俺が目覚ましかけた意味なくなるやん」
「あたしは別にこんな時間に起きなくてもいいし」
「あーはいはい。邪魔して悪かったな」

 忍足がペットボトルをに返して、「シャワー、借りんで」とベッドから立ち上がった。
どうぞご勝手にとばかりには再びベッドに潜りこむ。

「シャツ、それ俺のやん。シワになるからその格好でベッド入らんといてや」

 聞こえないフリ、聞こえないフリ。
布団を頭からかぶれば、諦めのため息が降ってきた。
 まだ五時十二……ああ、もう十五分か。
こんな朝早くからよく運動なんかできるよな、と毎度のことながらは感心する。
あの黄色い毛の生えたような小さなボールを毎日汗だくになってまで追いかける彼らの気持ちをは多分一生理解できない、と思った。

「あ、ついでにバスタブ洗っといて。私もあとから入る」

 バスルームへ向かう途中の裸の背中に声をかければ、「お前……、ほんまにええ度胸しとんな」と振り返った忍足にじっとり睨まれたが、は悪びれもせず「よろしく」と言い放ってとっとと眠る態勢に入った。
小さなため息の音、遠ざかる足音、折戸が開く音、くぐもった水音が順番にの耳に届く。

 知らぬ間に目の前のキャンパスは、面白みのない鈍い灰色に変わっていて、は静かに生ぬるい息を一つ吐き出した。


◇◆◇


 シャワーヘッドから出た熱い雫が勢い良く忍足の引き締まった身体に当たって弾かれる。
十分に全身の汗が流されたのを確認してから、蛇口をひねってシャワーを止めた。
忍足は濡れた髪を掻きあげて、バスルームの天井を仰ぎ、目を閉じる。
 そして、この行き場のない想いも汗と一緒に流せてしまえればどんなにいいか、と深くため息をついた。


 
“跡部景吾の婚約者”。高等部からの外進生。
跡部財閥と同等の資産家のご令嬢でその佇まいは圧倒的に美しく、入学するやいなや周りの者は皆静かな力でねじ伏せられるように彼女を“お姫様”と崇め奉った。
けれど、憧憬や羨望の裏で妬み嫉み僻みを大鍋で一緒に煮込んだような禍々しい感情が蠢いていることも忍足は持ち前の洞察力で的確に見抜いていた。
 そんな環境下で、彼女はいかなる時も“跡部景吾の婚約者”というスタンスを崩さなかった。
自分にはつけいる隙は一ミリだって存在しない、とでも言いたげなその完璧さは人間味がなく薄気味悪いほどだ。
 自分を押し殺してまで“跡部景吾の婚約者”という立場にしがみつきたいのかと、忍足はのことを内心で嘲笑っていた。

 だから跡部のいないところで彼女にちょっかいを出してみた。
その強かな仮面を剥いで、内に隠れた彼女の本性を覗いてみたくなったからだ。
 それに跡部だってここらで一度何もかも自分の思い通りにならないことを知ればいい、と思う。
思い知って、打ちひしがれて、二度と這い上がれなくなれば尚のこといい。
はじめて誰かを見上げなくてはならなくなったとき、その行為がいかに屈辱的な拷問かやっとわかるだろう。
 跡部が女一人奪われたくらいでそうならないことは明らかだったが、想像するだけでも忍足は随分愉快な気分になれた。

 しかし、実際に彼女が自分の誘いに乗ったのは、忍足にとってかなり予想外のことだった。

「なぁ、さっきおったのってオトンとオカン? 俺、挨拶せんでもよかったん?」
「馬鹿じゃないの。コンシェルジュよ。関西人っていちいちボケないと気が済まないの?」

 濃紺のカーペットがひかれた内廊下を抜けて、グランドピアノもバラさず運べそうなほどの広いエレベーターに彼女と二人で乗り込んだ。
階数ボタンがそろばんの珠のように無数に並ぶ中、彼女は一切の迷いなく一番大きな数字が書かれたボタンを押した。

「俺はどっちかて言うと普段はツッコミ派やねんけどな」
「心底どうでもいい」

 エレベーターが止まって目的の階に着き、再び内廊下を少しだけ歩いたところにあるドアの前でが立ち止まった。
がスクールバックからなにやらカードのような物を取り出して、ドアの隣に設置された機械にかざし、さらにそのあと親指を機械に押し当てて、やっとドアが開いた。

「なぁ、なんでこのフロア、扉が一つしかないん?」
「この部屋しかないから」
「やっぱりか。ここ、跡部が用意したんやろ? すごいな。愛の巣っちゅう可愛え言葉がまったく似合わんほど豪勢やん」
「用意してくれたのは確かに景吾だけど、愛の巣なんかじゃないよ。景吾は玄関より先に入ったことないし」
「さすが跡部、紳士やなぁ。婚約者なのに手出さへんなんて自分のことよっぽど大事なんやな」

 このマンンションのセキュリティ並みに厳重に見えた彼女の警戒心は、実はド田舎の玄関くらい不用心なものだった。
難攻不落だからこそ楽しめると思ったのに、これでは拍子抜けもいいとこだ。
忍足は大理石が敷き詰められた玄関先ですでに白けかけていた。

「なぁ、やっぱり今日は帰——」

 そう言いかけて、言葉が消えた。
振り返って自分をまっすぐ写した震える瞳に見上げられた瞬間、林檎が地面に落ちるのと同じ法則で忍足はに引き寄せられる。
忍足の本能が“これは運命”だ、と叫んだ。
その力に、声に、導かれるまま彼女の華奢な身体を腕の中に囲うと、自分の中にあった歪んだピースがカチリと音をたててはまったような気がした。
 いつのまにか当初の目的のひとつであった跡部を屈伏させたいという欲望だけが泡のように消え去っていた。


 脱衣所を出ると足元で小さな騎士が美しい銀毛をこれでもかというほど逆立てて忍足を威嚇した。いつものことだ。
青みがかった瞳がどこかの誰かさんそっくりで忍足は思わず顔をしかめる。

「おいで」

 その様子を見ていたがこちらへやって来て、小さな騎士——愛猫のロシアンブルー(名前は知らない。彼女は何故か頑なに教えてくれないから)——を抱きかかえた。
彼女はそのままリビングのソファーへと移動して滑らかな手つきで灰色の背を撫でつける。
それはそれは愛おしそうに目を細めて。
 この部屋では鎧代わりの作り笑顔は必要ない。
だから今腕の中の小さな生き物に向けている柔らかい表情は、彼女の素顔だ。
こんな関係になったからこそ、それが見れるのかと思うと皮肉すぎる。
 全てが偽りに見えた彼女の笑顔が、本物に変わるとき。
彼女が跡部のことをどう想っているのかが垣間見える瞬間でもある。

「……その猫、絶対雄やろ」
「なんでわかったの?」
「……感や」
「ふーん……。あ、ねぇ、ところでバスタブ洗っておいてくれた?」

 がやっと猫から顔をあげて、こちらを見た。
何も答えずそのまま彼女の唇を奪うとその拍子に彼女の膝から猫がスルリと落ちて、再び忍足を威嚇するようにシャーッと鳴いた。


◇◆◇


 身体がズルリと滑ったのがわかったのと同時に鼻がツンと痛んだ。
が慌てて起き上がるとそこはバスタブの中だった。どうやら湯に浸かったまま寝てしまっていたらしい。
昨夜一睡もしていないせいだ、とにはすぐにわかった。


「あれ? “お姫様”やん」

 忍足との出会いは学園の屋上だった。

「自分もサボったりとかすんねんな」と自分を小馬鹿にするように笑う忍足を見て、はその場からすぐに立ち去ろうとするが、腕をわりと強い力で掴まれてそれを阻まれる。

「俺、跡部の同じテニス部の忍足言うんやけど、知っとる?」

 何も答えないでいると忍足は「なんか言うてや」と茶化すように顔を覗き込んできたので、は真顔で「“なんか”」と強い口調で返した。すると忍足は「自分やっぱおもろいな」と腹を抱えて本格的に笑い出したので、は掴まれている方の腕を思いっきり振って今度こそ屋上をあとにした。

 その日を境に何かと忍足はに接触してくるようになった。
しかもそれは決まってがひとりでいるときだ。
最初が最初だったので、も忍足の前では変な猫かぶりをするのはやめていた。
「休みの日は何してるん?」とか、「独り暮らしってほんま?」とか、「好きな球団ドコ? あ、球団って野球な」とか、何を聞かれてもは冷たい態度を貫いた。
しかしそれでも忍足はめげない。
はじめは鬱陶しいだけだったそれが、回数を重ねる毎にそんなに嫌じゃなくなってる自分に、は胸の内でひっそりと驚いていた。

「なぁ、跡部なんかやめて俺にせえへん?」

 忍足が跡部に対して一方的に劣等感を抱え、そのうまい捌け口として自分を利用しようとしていることをは早いうちに見抜いていた。
なのにそう誘われて思わずその手を取ってしまったのは、その飢えた瞳に自分の姿を見つけてしまったからだ。
満たされない思いが身の内で燃え上がり、のたうちまわりながら必死に助けを求める様は他人から見ればこんな風に見えるのか、と。
醜さに目を細めながらも決して逸らすことはできず、その哀れな姿に手を差し伸べずにはいられなかった。
守らねば、とそう思った。

「なぁ、好きでもない男に抱かれるってどんな気分なん?」

 軋むベッドの上で忍足はに覆いかぶさりながら意地悪く尋ねた。
は吐息の合間に「しらない」と答える。

 生憎“好きでもない男”に抱かれたことのないには、本当に答えられない質問だった。
 可哀想な忍足。可哀想な自分。
それに酔っていられる間だけ、は幸せになれた。


 ザブンッと音を立てて、今度は自らの意思では頭のてっぺんまでバスタブに潜る。
このまま死ねたらどんなに楽か、そんな思いが碇になってこのままどこまででも沈んでいけるような気がした。





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