※冒頭のみヒロイン視点、他は侑士視点

 踵を返して休み時間の騒がしい教室へ戻った。

「あれ? 職員室に行くんじゃなかったの?」
「やっぱ後でいいやと思って」

 クラスメイトが「ふーん」と気の抜けた返事をよこしたあと、ふと思い出したかのように「忍足とケンカしてるの?」と聞いてきた。
私はその問いに首を横に振って答える。

「でも最近一緒にいなくない?」
「そう?」
「まぁ、もとからあんまりベタベタって感じじゃないもんね、たちって。たまに本当に付き合ってるの? って疑いたくなるときとかあるもん」
「付き合ってるんじゃない?」
「なんでそこ疑問系?」
「んー、“付き合ってください”、“はい、いいですよ”って約束を交わしたわけじゃないから?」
「えっ! 何それ! え? それでどうやって付き合うの?」
「なんとなく? 学校でよく話すようになって、休みの日とかも約束して外で会うようになって、そういうの何度も繰り返してるうちに?」
「えー! 何それ! 意味わかんない!」
「そうかな?」
「そうだよ! 告白ってさ、結構重要じゃない? 初めて“スキ”って言われるのって飛び上がるほど嬉しくて一生の想い出になるじゃん!」
「……?」
「え、何そのまったく理解できないDEATHみたいな顔」
「いや、そういえば“スキ”って言われたことないから、その気持ちはよくわかんないなぁ、って」
「ハァ?」

 あまりにも大きなリアクションをとるもんだから、周囲の視線を一気にかき集めた。
その様子にワンテンポ遅れて気づいた友人が慌てて自分の口元を手で覆ってから、ことさら声を小さくして話を続けた。

「え、ねぇ、って忍足から“スキ”って言われたことないの?」
「ないねぇ」
「ふたりってさ、付き合ってもうだいぶ経つよね?」
「そうだねぇ。中三からだと思うから、あーえっと、もう四年くらい? まぁ、いつからカウントするのかっていうのは、さっきも言った通り曖昧だけど」

 友人が理解できないとばかりに真顔になって「それで四年も続いてるとか奇跡だよ」と漏らした。
「奇跡ねぇ」と苦笑しながら教室の時計を上目遣いで確認すると、そろそろ休み時間が終わりそうだ。
次の授業のために机の中から教科書やノートなど必要なものを出しているとすでに机の上にあったペンケースを落としてしまい、中に入っていた筆記用具が床に散らばってしまった。
「あぁあぁ、何やってんの」と言いながら友人も拾うのを手伝ってくれる。
後ろの席に座っていた滝も、少し遠くまで転がってしまった消しゴムを拾って渡してくれた。

「てゆーかなんか意外。忍足って“スキ”とか“アイシテル”とかいっぱい言ってくれそうなのに」

 滝にお礼を言ってから、自分のイスに座りなおす。
ペンケースの中身を確認しつつ、まだしぶとく同じ話題を続けてくる友人の声を軽く聞き流した。

「実際そんなことペラペラ言う男子っている? ドラマとか少女漫画の中だけじゃないの?」
「いるよ! 少なくとも四年も付き合ってたたら、普通一回くらいは言うでしょ。、絶対損してる」

 机を拳で叩いて力説する友人は始業五分前の予鈴が鳴り終わったことに気づいていないらしいから教えてあげると、まだ何か言いたげな顔をしたまましぶしぶ自分の席へ戻っていった。
そのあとすぐに本鈴が鳴り、授業が始まる。

 数学教師が教室に入ってきて、日直が号令をかけた。
起立、礼、着席。今日は昨日の続きの——そう言って黒板に板書するため、教師が背を向けると多くの生徒の目線が自分の手元へと移った。
 高三の秋ともなると教室は水面下で緊張度を増し、受験ムードが色濃くなる。
中には授業そっちのけで塾のテキストや参考書を広げているものもいるが、ほとんどの教師がそれを見て見ぬフリだ。

 「え、ねぇ、って忍足から“スキ”って言われたことないの?」

 私も余計なことを考えるのはやめて集中しようと志望校の名前が書かれた赤い本を開いた。


◇◆◇


「“スキ”だって言ってあげたことないんだって?」

 サロンで一人、読書をしていると頭上から聞き覚えのある声が降ってきた。

「なんの話や?」

 顔を上げてみれば、思った通り声をかけてきたのは同じテニス部の滝だった。
滝は柔らかい物腰で俺が座っている向かいのイスに浅く腰掛けた。他にもっと席が空いているというのに、だ。

「今日が友達と話してるのがたまたま聞こえちゃったんだ。」

 滝はたしかと同じクラスだった。
大方彼女というより、彼女の友人が騒がしくしたのだろう。

、“スキ”って言われたことないの?って質問に「ない」って即答してたよ」

 滝は頬杖のつきながら、口元に優雅な弧を描く。
俺はそれに反するように、自分の薄い唇を一文字に結んだ。

はなんでもなさげに答えてたけどさ、即答できるって、逆にそこのこと意識してないと難しいんじゃないかな。本当にどうでもいいなら“ない”ってことも曖昧な認識なはずじゃない?」

「そういうの、」と言って滝は俺が読んでいる文庫本をちょんちょんと指さした。

「……本がなんやねん」
「なんのために読んでんのさ」
「……」
「言ってあげればいいのに。きっと喜ぶ」

 別に恋愛小説は実戦に生かそうと思って読んでるわけではない。
こんな本に出てくるような台詞は三次元で言った途端、よっぽどうまく行かない限り、相手の心に届く前に宙を彷徨う。物語フィクション物語フィクション。次元を超えてはいけない、それが持論だ。

ってツンとしてるように見えるけど、やっぱり女の子だし、忍足が思うほど強いわけじゃないんじゃないかな」
「……なんでそないなこと滝が知ってんねん」
「俺がのこと好きだから」
「——っ!」

 腹立ちまぎれに放った言葉ボールが思いもよらないホームランで返される。俺を試すような好戦的な眼差しが、滝の整った顔の上でキラリと光った。
唖然として、次の言葉が何も出てこない。
時間にするとほんの数秒。視線の応酬をしたあと、滝が突然吹き出した。

「プッ、冗談だよ。おっかしー。忍足でもそんな顔するんだね」

 滝はそのまま腹を抱えて大笑いしだした。
不愉快なことこの上ない。じとりと睨んでも滝は一向に笑いを収める気はないらしい。
しまいには笑いすぎて涙まで出てきたらしく、ポケットからハンカチを取り出して目元を拭き、ようやく落ち着きを取り戻したようだった。

 そして「さ、俺はそろそろ行かないと」と唐突に席を立つ。
早くどっかに行ってくれ、という思いとやられっぱなしなのは気に食わないという思いが、俺の中でシーソーゲームをした。
 そんな俺なんかまったく気にとめる様子もなく、滝は去っていく。しかし、すぐに何か思いついたように振り返った。

「前言撤回。“きっと”じゃなくて絶対喜ぶよ」

 滝はたおやかに今日一番の意地の悪い笑みを作った。


◇◆◇


 が俺の腕をすり抜けて、しなやかにベッドから抜け出した。
床に散らばった下着を拾い、素早く身につけている。

「なぁ、」
「何」
「なんか怒っとる?」

 彼女の動きが一瞬だけピクリと止まり、間をおいてなんでもなかったように再開した。
彼女は振り向かないまま「なんで?」と聞く。その声は平坦で、色がない。

「なんとなく」

 違う。なんとなくじゃない。
最近彼女が俺を避けていることは、誰にいわれるまでもなくちゃんと自分で察知していた。
そして、その理由も。

「意味わかんない」

 彼女は制服のネクタイを首元でこねくり回していた。
器用なくせに何故かネクタイを結ぶのは苦手で、自分で脱ぐときはいつも全て解ききらず、輪っかのまま首から抜いていると言っていた。締めるとき、そのまま整えるだけで済むようにと。
 けれど、今彼女の首もとにはダラリと一本になったネクタイがかけられていた。さっき俺が綺麗に解いしまったからだ。

「貸しいや」

 ベッドから身体を起こして、彼女の腕を取り、自分方へ向かせる。
ワイシャツの襟を立てて、ネクタイの位置を調整して、結んでやった。彼女と付き合うまで、他人のネクタイなんか結んだことがなかくて最初は戸惑ったが、四年も経てば慣れたものだ。今ならもう目隠ししたって結べる気がする。

 四年——十八歳の俺たちにとってそれは、決して短い月日じゃない。いろんなことがあった。
 初めてのデートは映画館。
若い女子向けのコテコテラブロマンスは、どうやら彼女には合わなかったらしい。船をこぎながらもなんとか持ちこたえようと懸命に目を見開らいてはまた船をこぐを繰り返す彼女を見て、俺は暗闇でひとり笑いを堪えるのに必死だった。
初めて手を繋いだのは、その帰り道。初めてキスをしたのは、放課後の教室。
初めてそれ以上のことをしたのは、雨の酷い日。
全部、覚えている。たぶん、一生忘れない。

「……怒って、ないよ」

 ネクタイを結び終えると彼女がぽつりと言葉を溢した。

「ほんとに……怒ってるわけじゃないから気にしないで」

 そう言い終えると、彼女は再び俺に背を向けてベッドから立ち上がろうとする。
ベッドのスプリングが悲鳴を上げるのと同時に俺はその身体を後ろから抱きしめた。

「ちょ、」
「好きや」

 空気がピリッとしたのがわかった。
俺たち以外誰もいない部屋は耳が痛くなるほど静かな沈黙に包まれる。

「……誰かからなんか聞いた?」

 彼女は、——女は敏い。下手な嘘はつかない方がいい。

「滝から、ちょとな」

 はぁ、と彼女がめんどくさいとでも言いたげな様子でため息をついた。
それが俺の心の柔らかい部分を器用に抉る。

「……まぁ、これからいなくなる奴にそんなん言われて嬉しないか」

 そう言って彼女を抱きしめていた腕を解いた。
俺は今年大阪の大学を受験する。テニスは高校まで、大学は大阪こっちで医大。
それは東京ここへ来るとき、父親と交わした唯一の約束だった。
今まで我儘を通させてもらった分、裏切るわけにはいかない。
 だから、付き合う前からサヨナラは決まっていた。
確実に来るそのときには抗えず、ただ日々悔いがないように過ごすことしかできなかった。
 砂時計の砂が落ちているのを眺めているような恋だと思った。
ザラザラと落ちていく砂粒が、積もるのと同じように愛しさが募るのに、それに反比例するように一緒にいられる時間が否応なしに減っていく。
 きっと彼女は、一足先にサヨナラの準備を始めたんだと思う。
少しずつ、自然に、でも確実に。俺との距離を広げて、別れの日が来たとき、何の未練もなくさっぱり別れられるように。
「その方がお互いのためでしょ?」と淡白に言い放つ彼女がありありと想像できた。
 彼女はまま一方的な考え方をする。
けれど俺は今回それに文句を言う資格はない。勝手にいなくなるのは自分なんだから。

「——っないじゃん」
「え、」
「嬉しくないわけないじゃん! って言ったの!」

 バシンッと手近にあった枕を彼女が俺の顔めがけて投げつけた。
すんでのところでかわした枕が、俺の後ろの壁に当たり、力なくベッドに落ちた。

「……そういうこしょばゆい事言われるん、好きやないんかと思っとったわ」
「好きじゃないけど、嬉しくないわけじゃない」
「……なんやねん、それ」
「好きな人に“スキ”だって言われて嬉しくないはずないじゃん!」

 俯いていた彼女が堪らず顔を上げて叫んだ。
彼女の瞳には涙が浮かんでいて、その切なく歪んだ表情が怖いくらい綺麗で無意識に息を呑んだ。

「わかってたの、覚悟してた、ずっと。大阪に帰ることは始めっから知ってたし。でも、全然覚悟足りなかった……」

 彼女が俺の肩口を力なく拳で殴る。
俺はそれを甘んじて受け入れた。

「どんどん時間だけが過ぎてって、サヨナラの日が近づけば近づくほど苦しくなって、最近じゃ顔見るだけで「行かないで」って叫んじゃいそうで……。だから、避けてたの。最後に、困らせて嫌われたくなかった……」

 俺を殴る手が止まり、ズルリと俺の身体に沿って落ちていくのを待って、俺は彼女の身体を抱きしめた。

「そんなんで嫌いなるわけないやん」

 なんで気づかなかったんだろう、気づいてあげられなかったんだろう。彼女の精一杯の強がりに。
気づいていれば、きっとこんな風に彼女を泣かせずに済んだ。
大丈夫じゃないのに「大丈夫」って笑う癖、ちゃんと知っていたはずなのに。


 彼女の涙を拭うように親指で頬に触れて、その瞳をそっと覗き込んだ。
「四年も付き合うとるのに、泣いた顔は初めて見たわ。もっとよお見せて」と揶揄えば、彼女は必死に身を引いて自分の顔を隠した。

「——なぁ、

 優しく名前を呼べば、身構えていた彼女の身体からスっと力が抜けるのを感じた。
俺の次の言葉を不安そうに待っている。
 今なら言える。ずっと隠していた自分の気持ち。

「待っててくれへん」
「……え?」
「医大やから普通の大学よりちょっと長くかかるけど、それでも全部終わったら必ず迎えにくる。せやから、——」

「俺を待っててくれへんか」と言い終わる前に、彼女の瞳からは一度は止まったはずの涙が再び溢れ出した。
俺の腕の中で何度もうなづく彼女が愛おしくて、自然と口が動いた。

、好きやで。大好きや」


◇◆◇


「そろそろ上行こうか」

 大きな荷物はもうあらかた送ってあった。
手荷物は、ギリギリまで必要だった数枚の下着と服と洗面用具くらいだ。
 東京駅は三月じゃなくても混んでいる。三月だと凄まじく混んでいる。
新幹線のホームに上がるとすでに長蛇の列が出来ていた。

「あ、そうだ。跡部からね、餞別って預かり物あったんだった」

 そういって彼女は自分の小さな鞄から白い封筒を取り出した。
手紙? 何故、跡部が俺に手紙を? 疑問符を頭の中に浮かべながらその場で封を切る。
彼女も興味があるらしく、俺の手元を覗き込んだ。

「うわっ」

 中から出てきたのは、跡部のブロマイドだった。
しかもご丁寧にメッセージとサイン付き。

「……いるか?」
「いらない」

「あ! でも、やっぱりいる! 跡部のファンに売ろう」彼女がそう言ったので、ブロマイドはそのまま封筒に戻し、彼女に譲った。


「気、使われたのかな」
「ん?」
「いや、本当はみんな見送りに来たかったんじゃないかなって」
「別にええやろ。あいつらには、こないだ派手に送別会してもろうたし。それに俺も今日は、と二人っきりの方がええし」

 俺の言葉に「……ふーん」とそっけなく相槌を打った彼女はさりげなく横を向いた。
生緩い春の風が吹いて、彼女の髪を撫でた。一瞬チラリとのぞいたその耳が、ほのかに赤く染まっていたことを俺は見逃さなかった。
彼女のこんな姿が見れるなら、素直に気持ちを言葉にするのも悪くない、と今更ながらに思った。

 ホームにアナウンスが響き、ほどなくして大阪行きの新幹線が入ってきた。
始発駅だから降りてくる乗客はいない。列の頭から順に慌ただしく乗車していく。
 最後尾だった俺はそのまますぐには乗り込まず、一緒にいれる時間を少しでも伸ばそうとするが、彼女に「早く乗りなよ。行っちゃったらどうするの」と真顔で急かされ、しぶしぶ地面に置いていた手荷物を持ち上げた。

「……ほなな」
「うん」
「夏休み、待っとるから」
「うん、私大阪行ったことないから楽しみ」
「いっぱいいろいろ案内したるわ」

 自分の座席には向かわず、そのままデッキに残る。
何か、他に言いたいことはなかっただろうか。言っておきたいこと。
得意のポーカーフェイスの裏で必死に想いを巡らすが、何一つとしてきちんとした言葉の形にはならず、その代わりに湧きあがろうとする涙を堪える方に神経がいった。

「ねぇ、」
「なんや」
「私ね、侑士に嘘ついていたことある」

 思いがけない彼女の言葉に、ごくりと生唾を飲み込んだ。
彼女は、この後に及んで何を言い出すと言うのだろうか。

「本当は自分でネクタイ結べるの」
「ハ?」
「侑士に結んでもらいたくて、ずっと嘘ついてた」

 彼女は「気づかなかったでしょう」と茶目っ気たっぷりに笑った。
そんな可愛い嘘、怒るわけがない。俺も「全然気づかへんかったわ」と一緒に笑った。


 ホームに発射のベルが鳴り響く。

「いってきます」

 これは「ただいま」を言うための「いってきます」。

「いってらっしゃい」

 これは「おかえり」を言うための「いってらっしゃい」。


 新幹線が発車する間際、窓ガラス越しに見えた彼女のサクラ色の唇が二つ音を象った。


  す き  


 次会うときにはちゃんと耳で聞きたい。
離れたそばからまた会いたくなって、携帯電話のカレンダー機能を無意味に立ち上げた。



inspiration by music:JUJU『素直になれたら feat. Spontania』