夜更け過ぎに玄関のチャイムが猛烈な勢いで連打される。
怖すぎてどうしようかと思って固まっていると、今度はドアを容赦なく蹴飛ばす音が聞こえてきた。
さすがに無視できなくて、恐る恐るインターフォンのカメラで外を確認すると、そこには——

「光クン! ちょっ! 何してるの! ってか、酒臭っ」

 玄関のドアを開けた瞬間、三つ年下の彼、財前光クンが倒れこんできた。
ポケットに奈良漬でも忍ばせているんじゃないかと思うほどの異臭を全身から放つ彼は正真正銘、間違いなく酔っ払いだった。

「もっと早よ開けろや。凍死したらどないすんねん」
「ご、ごめんね。てゆーか、大丈夫? 今、お水持ってきてあげるから、ちょっと待っててね、って、イタッ!」

 そう言ってとりあえず玄関先に彼を置いて台所へ行こうとすると私の右足首を彼が突然掴み、前方にビタンっと転ぶ。
膝と鼻をフローリングの床に打ちつけ、めちゃくちゃ痛い。
何すんだ、このヤロウと倒れこんだまま振り返り睨んだが、そんなことお構いなしにそのまま私の右足首を持ってズルズルと引きずり自分の腕の中に私を抱え込んだ。背中越しに感じた彼の体温はいつもよりかなり高い。

「どこ行こうとしとんねん」
「だから、お水だって。飲むでしょ?」
「いらん」

 何にもいらん、そう繰り返しながらぐりぐりと私の肩口に額をこすりつける彼の頭を優しく撫でれば、子供扱いすんなや、とその手を払いのけられた。……何ヤネン。

「どうしたの? こんなに酔っ払うのなんて珍しい。てゆーか初めて見た」
「別に。つか、そんな酔ってへんし」
「酔っ払いはみんなそう言うんだよね、ってイタッ! 痛い、痛い、ほんとやめて! ほんと痛い!」

 彼は私のツッコミがお気に召さなかったらしく、あろうことかそのまま目の前にあった私の首筋に思いっきり噛みついた。ちょっと、ほんとに信じられない。
本気で痛かったので、彼を突き飛ばして腕の中から逃れた。噛まれた首筋に触れば血液が付着してて、本気で引いた。

「なんで逃げるんスか」
「いや、君が噛みつくからですよ。ちょっと本気で勘弁してよ」
「なんで逃げるんスか」
「いや、だから君がさ、」
「なんで、どっか行こうとすんねん」

 会話が成り立ってないような気がする。
酔っ払い相手なんだから仕方がないとこちらが譲歩すべき場面なのかとも思うが、これ以上痛い思いをするのは御免だ。
いまだ殺気を放ちまくってる彼の視線から逃れようと、さらに身を引こうとすれば、これ以上逃がさまいと右手首を掴まれ、また無理矢理腕の中に閉じ込められた。今度は正面から抱きすくめられ、彼の熱い吐息が耳元にかかる。
 ぎゅうぎゅうと力を込められて苦しい。ただ抵抗すればまた痛い目にあいそうなので、もう無抵抗で彼の行為を受け入れることにした。

「謙也サンが、」
「ん?」
「謙也サンが、「そんなんでよう彼女に愛想尽かされへんな」って……」

 “謙也サン”は確か彼の中学時代から仲のよい先輩だ。彼も同じく東京コッチに上京しているらしく、たまにご飯やら遊びやらに一緒に行ってるらしい。写メでしか見たことのない人の良さそうなド金髪の男の子を思い出す。

「「女の子はお花や。毎日水あげるみたいに“好き”って言うたらんとすぐにそっぽ向かれんで」って。ほんまっスか?」
「……謙也クン、今まで結構面倒くさいタイプの女の子と付き合ってきたんだね」
サンは“好き”って言われたないんスか?」
「そうじゃないけどさ、無理矢理言うことでもないじゃん。それこそ義務みたいに言われる方が嫌かも」

 彼は、ふーん、と納得したんだかしてないんだかよくわからない相槌を打ち、私を抱きしめ直した。
先ほどよりはだいぶましになった力加減にほっとしたが、それもつかの間。すぐにまたぎゅうぎゅうと力が込められた。
 もうどうにでもしてくれ。

サンは大人っスね」
「まぁ、一応、君よりは年上だからね」
「ビービーエー」
「捻り千切るよ」

 そう低い声を出せば、彼はケタケタと笑っているらしく小刻みに肩が動いた。
それが一通り落ち着けば、またポツリ、ポツリ、と小さく呟くように語りだした。「俺は、」と言った後、スゥと大きく息を吸い込むのが聞こえた。

「ほんまは言いたいし、聞きたい」

サン、好き」

「ほんまに好き。大好き」

 予期していなかった台詞に私は思わず黙る。
たぶん、初めて言われた。いや、たぶん、じゃない、絶対だ。

 付き合うときもなんとなくって感じで決定的な言葉があったわけではなかったし、それからの付き合いの中でもこんな直接的な物言いをされたことはない。
 それに不満がなかったと言えば嘘になる。年上だからと甘えるに甘えられなくて、初めの頃こそ、へこんだこともあった。けれど彼と付き合ううちに、言葉以外で優しさを見つけられるようになり、これはこれでいいのかなぁ、なんて思っていたんだ。

 待ち合わせは必ず先に着いて、待っててくれる。
スマホを片手に、空いてる手はポケットに突っ込んで気だるそうに立っている彼に、「ごめんね、待った?」と聞けば、「別に今来たとこっスわ」とテンプレートな返事がお決まりだった。
 私が傘を忘れて、嫌々ながらも相合傘をして一緒に帰ってくれたとき。
傘が私の方に傾いていたことに気づいたのは、後日彼が風邪を引いてしまってからのことだった。

 だから、もう言葉なんていらないと思ってた。これ以上望んだらバチが当たる。そう自分に言い聞かせていた。

「俺の話、聞いてました?」
「う、うん。聞いてたよ」
「で、」
「で?」
「なんで、俺の言葉繰り返すんや、オウムか! 繰り返すならさっきの言葉繰り返せや」
「え?」

「“好き”って言えって言うてんねん」

 むぎゅっと片手で両頬を潰される。
だから私はおそらくひょっとこみたいな可笑しな顔になってるはずだ。やめてくれ。そう言いたいが、そんな雰囲気ではない。
彼は至極真面目な顔で私を睨みつけ、私が口を開くのをじっと待ってる。
 気持ちを確かな言葉にしていなかったのは自分だって同じだってこと、それからそれを彼も同じように寂しく思っていたことにやっと気がついた。

「しゅきでしゅ」
「ちゃんと言えや」
「なな、はにゃしちぇ」

 彼の手が頬から離れるのを待って、もうその手が再びおイタをしないように、片手ずつ自分の手で捕まえた。
下から覗き込んだ彼の顔はアルコールの所為か、それともこの状況の所為か、微かに潤んで震えていた。
それが最高に可愛い。可愛くて、可愛くて、どうにかなっていまいそうだ。

「好きだよ」
「もっかい」
「好き」
「もっかい」
「すき」
「なんや、無理矢理言わされる感満載で萎える」
「おい」

 そんなことを言いつつ、その後も結局彼は自分が眠につくまで愛の言葉を要求し続けた。
「すき」「大すき」「あいしてる」。彼も同じ言葉を私に降り注いだ。

 なんとか玄関から彼をベットに運ぶ。コートだけを脱がして、上から布団と毛布をかけた。
一仕事終えてフゥと息ついていると、ベットからはみ出ていた彼の手に気づく。しまってあげようとその手に触れれば、強く掴まれた。
驚いて、彼を伺えば生意気な瞳は閉じられたままだった。どうやら無意識のようだ。
クスリと笑って、しばらくの間、私の手を握ったまま眠る彼の寝顔を眺めてから私も隣で眠ることにした。


◇◆◇


「おはよう。調子、大丈夫?」
「……」

 一足先に起きて、朝食の準備をしていると彼が死にそうな顔で起きてきた。
私の言葉には反応せず、そのままトイレに向かう彼に苦笑する。
あの様子では昨日のことなんか覚えていないかもしれない。

「コーヒー飲む?」
「……いらん」
「オレンジジュースは?」
「……飲む」

 ガラスのコップに冷蔵庫から取り出した冷たいジュースを注いでキッチンカウンター越しに彼に手渡した。

「ねぇ、光クン」

 スマホを片手にジュースを飲む彼に優しく声をかける。
これから昨夜の再現をしたら二日酔い真っ只中の彼はどんな顔をするだろうか。今から楽しみで、口元が勝手に緩んだ。

 朝一番、花に水をあげるように、私は彼に向けて愛の言葉を口にすることにした。



◇おまけ◇

「好きだよ」

 気怠そうな横顔に向かってそう言えば、彼は飲んでいたオレンジジュースで激しくむせかえった。

「ゲホッ、ゲホッ、は? 何言うてんねん急に」
「急にじゃないよ。昨日も言ったし。てゆーか、光クンも言ってくれたよ?」
「……人が酔っぱらっとったのいいことに、勝手に記憶捏造するのやめてくれます」

 やっぱり昨夜の記憶はないらしい。
ちぇ、っと下唇を突き出して、そっぽを向いてしまった彼の背中を恨めしく眺めていると、ふとあることに気づく。

「ねぇ、耳、真っ赤だよ」

 今までだったら気づかないフリをしてあげているところだけど、今日からはもうそんなことはしない。
年上だとか、年下だとか、そんな些細なことより大事にすべきことがあると昨日やっと知ったから。
 素直に自分の気持ちを言葉にすることで、誰かの心がこんなにも動くことが単純に嬉しい。

「そう言ってるアンタかて、顔、赤いやん」

ちっとも怖くない顔で睨まれて、私は思わず顔がにやけた。