恋は魔法だ。
馬や犬が御者や従者に、ねずみが白馬に、そしてかぼちゃが馬車に変えられたように、平凡な日常が恋をすることによって突如として掛替えのない一瞬に変化することを私は中二にして初めて知った。

 廊下ですれ違った、目が合ったような気がする。そんなことでも十分だったし、言葉を交わせなんかすれば、朝見る星占いで一位をとるより、その日一日ずっと幸せな気分で過ごせた。

 けれど魔法は時がくれば解けてしまう。
十二時を告げる鐘の音が鳴り響き、無情にも私に恋の終わりを知らせていた。


◇◆◇


 今を遡ること丁度一年、文化祭最終日。
毎年この時期に新旧入れ替わったばかりの生徒会が後夜祭で余興をやるのはうちの学校では恒例で、去年もその例外ではなかった。
ただその演目は毎年生徒会という立場上からか、代わり映えのない真面目な内容(平たく言えばあまり面白くないもの)がお決まりで、観客の生徒達の多くはそれが始まる前から次の演目『ミス&ミスター青学の発表』に関心が向いていた。
斯く言う私も、正直暗くて人の熱気で程よく温まった体育館で瞼が重くなりかけているところだった。

 そんな雰囲気の中、突如爆音で誰もがこれから行われることを瞬時にイメージできる有名なメロディーが流れ出す。
辺りが騒然となる中、一気に緞帳が開き、パッとスポットライトが壇上を照らすと、そこには新生徒会会長・手塚国光がシルクハットを被って立っていた。

 もうそれだけで衝撃的(そしてある意味笑撃的)な状況で、一同舞台を見上げたまま揃ってポカンである。
しかし、手塚本人はそんな観客など気にする様子もなく、いつもと変わらぬポーカーフェイスで手品を披露し始めた。
 音に合わせて、ステッキから花、手のひらからコイン、耳からハンカチ。次々と出てくるそれらを隣に控えているチャイナドレスの女の子(おそらく彼女らも生徒会の人達)が一瞬でも舞台を汚すまいと、たちまち回収する様もなんだかとても珍妙だった。
 そしてもう次がクライマックスなのだろう。ドラムロールが鳴り、手塚が被っていたシルクハットを脱いだ。
ワン・ツー・スリー、手塚の掛け声と共にシルクハットから飛び出したのはなんと生きている本物のうさぎだった。ジャーン、っという盛大なシンバルの音と共にポーズを決める手塚たちを余所に、首根っこを掴まれたうさぎだけが彼の手から逃れようと必死にバタバタもがいていた。

 疎らな拍手の中、手塚たちが一礼して舞台袖にはけていく。
こうしてなんだかよくわからないうちに、手塚国光率いる新生徒会による怒涛のマジックショーは最後まで観客を置いてけぼりにしたまま、幕を閉じた。
 どう考えてもスベってた。手品自体古臭かったし、地味だったし、何より真顔で淡々とそれらをこなしてる手塚がおかしくてしかたがなかった。
 けれど私には、彼が少しでもここにいるみんなを楽しませようと精一杯真面目に、むしろ真面目すぎるくらいに努力していたのがわかった。
どんなことに対しても全力で挑むその姿勢に感動して、気がつけばその後もずっと手塚のことが頭から離れなくなっていた。

 後日、教室で文化祭に関するアンケート用紙が配られた。
私は、いつもだったら適当に書くであろう自由欄いっぱいに生徒会のステージの感想を書いた。
手塚本人が読むわけはないだろうし、そもそも読んだとしても、無記名なんだから私だとは気づかれまい。
そんなことも手伝ってか、かなり饒舌な感想文になった。アイラブユーなんて直接的な言葉は使わなかったけど、ラブレターに近い仕上がりのそれを私はそのまま教卓に提出した。

 こうして私はマジシャン・手塚国光に恋をした。


◇◆◇


「手塚のこと好きな子はいっぱいいると思うけど、あのステージを見て好きになった子は、きっと君だけだよ」

 君も大概変わってるよねぇ、と不二がクスクス笑う。
中学最後のクラスは去年同様、手塚とはクラスが離れてしまった。その代わりに手塚の親友(と本人が言い張る)不二と同じクラスになった。
不二はいつの間にか私の恋心を見抜き、以来何かと要らぬ世話を焼いてくる。

「で、どうするの?」
「……何が?」
「告白、しないの?」
「……するわけないじゃん」
「どうして?」

 今日は放課後だというのに大勢の生徒が学校にまだ残っていた。明日の文化祭の準備のためだ。
笑い声やはしゃぐ足音がそこらじゅうから聞こえてくる。学校全体が本番の明日を待たずして、すでにお祭りモードだった。
 今はそれが心底鬱陶しい。自分だって三日前までは他のみんなと同じように浮かれていたたはずなのに、今はもう早くここから抜け出したくてしょうがなかった。

「どうしてって……だってもう今更でしょ」
「なんで?」
「なんでって……あぁもう! 不二うるさい!」

 スクールバックにしまうつもりで手に持っていたノートで不二の肩を叩いた。
ボクなりに君たちのこと応援してるんだけどなぁ、と言う不二に、どこがだ! ともう一発叩こうとしたが今度は上手くかわされてしまう。
ボクは二度同じ攻撃は喰らわないよ、だって。何それ。

「ところでさ、ボクたちが付き合ってるって噂あるの知ってる?」
「え、何それ」
「手塚にも聞かれたよ」
「え! 何それ」
「“んー? どうかな?”って答えといた」
「ハァ? 何それ!!」
「アハハ」

 いやいやいや、付き合ってませんけど! 爽やかに笑ってないで、今すぐ一組に行って手塚の誤解を解いてこい! そう命令しそうになるもすぐに思い直す。もう誤解されようがなんだろうが、どうだっていいじゃないか、と。

「ちゃんとさ、手塚との思い出作っときなよ」

 いつの間にか笑うのをやめた不二が私を優しげに見つめていた。
その気遣わしげな視線にいたたまれなくなって、堪らず顔を逸らした。

「あ、そうだ。ねぇ、これ生徒会室に持ってってくれないかい? ボク今日日直で提出頼まれてたんだけど、どうしてももう帰らなくちゃならないんだ」

 下を向いて押し黙っていた私に不二がドサッと紙束を押し付けた。

「……ヤだ」
「そう言わずに。手塚に会えるかもしれないよ。去年の生徒会メンバーも手伝ってるらしいからさ」
「なおさらイヤだ」

 しかし結局不二に押し切られる形で、私は生徒会室に行く羽目になった。
こんなの不二が帰り際に届ければ済む話じゃないのかと反論したが、だって昇降口とは方向が真逆だろう、と笑顔で平然と言われた。不二ってひとりっ子でしょ、と聞けば、意外にも三人姉弟の真ん中だと答えが返ってきた。本当意外だ。
 不二とはそのまま廊下で別れた。
さっさと提出して私も帰ろう。帰って再放送のドラマでも観るんだ。
文化祭なんかもうどうだっていい。

 生徒会室の前に着き、ノックをしてから扉を開ける。
すると何故かそこにいた生徒会面々に一斉に拍手で出迎えられ、その異様な雰囲気に逃げ出そうとすれば、腕を掴まれ部屋の奥へと引きづりこまれた。

「え、何! 怖い! ヤだ!」
「いやぁ、マジ助かるよ、。ありがとう。今日からお前のこと女神様って呼ぶな」
「ちょ、放して! てゆーか、何?」
「じゃあとりあえず、この資料ホッチキスでとめといてくれるか」
「いや、だからなんで? 私、不二の代わりに書類提出しに来ただけなんだけど!」
「さっきその不二から〈今からがそっちに行くから扱き使ってOKだよ〉ってメールが着たんだけど……もしかして、これ嘘なのか?」

 私の腕を掴んでいた去年の副会長がみるみる涙目になる。
ぎょっとして他を見れば、そこにいる生徒会メンバーと思しき人達みんな同じ顔で私を見上げていた。多分みんな疲れてちょっとおかしくなテンションになってるんだろう。
 そういえば、行事前の生徒会は恐ろしく多忙になると以前手塚が言っていた。
たぶん、そのことを不二も知っていたんだ。まんまと不二に嵌められたと気づいたが、もう遅い。この状況で帰れるほど、私は非情にはなれない。
はぁ、っと深いため息が漏れた。

「やればいいんでしょう! やれば!」
「さすが女神様!」
「それやめて」

 手塚がここにいなかったのは、不幸中の幸いだ。


 ここは人の出入りが激しくてうるさいからと、生徒会室のさらに奥にある部屋に通された。
初めて入ったここはどうやら資料室のようだ。ドアと窓以外は事務用のファイルロッカーが壁を塞ぎ、部屋の中央には長机とパイプ椅子数脚が置いてあるだけの簡素な部屋だった。
 しばらくその部屋で一人黙々と作業をこなしていると、急にドアが開いて、さっきの元副会長が顔を出した。

「おーい、
「何? ノックくらいしてよ」
「悪い悪い。これからちょっと買い出しに行くんだけどさ、何か買ってくるか?」
「奢り?」
「もちろん奢らさせていただきます。ただし二百円までな」
「地味にセコイ! まぁ、いいや。じゃあ暖かいココアで」

 了解! と敬礼して元副会長が出て行った。ドアがバタンッと音を立てて閉まり、再び部屋に静寂が訪れる。
頼まれていた仕事はあらかた終わった。
資料の四隅を机の上でトンットンッと揃え、傍に避けてから、私は机に突っ伏して目をつぶった。

 うちの学校の生徒は、多くがそのままエスカレーターで付属の高等部に進学する。だから私ものんびりしていた。
部活第一の手塚を邪魔したいとも思わなかったし、何より私自身が現状に満足していた。
来年は同じクラスになれるといいな、なんて呑気に構えていた自分に今更ながら呆れる。


 手塚がドイツに留学する。そう不二から聞いたのは三日前のことだった。


 いつかはきっとこんな日が来るんだろうな、とは予感していた。手塚が将来を見据えてテニスをやっていることは私も知っていた。
でもその“いつか”がこんなにも早く来るとは思ってもみなかった。
 もう完全にお手上げだ。結局私の想いは何も届かぬまま強制終了だ。そう思うとすごく虚しいが、もうどうしようもない。
突然訪れた恋の終わりに、なかなか上手く対応することができず、この三日間ずっとため息のつき通しだった。
  そして今もまた盛大なため息が一つ、肺の底から押し出された。
そのタイミングで再びドアが何の前触れもなく開いた。


「もう! ノックくらいしてってさっき言ったじゃ−−……」

 突っ伏していた長机から身体を起こしてドアの方を見ると、入ってきたのは元副会長ではなく、元会長・手塚だった。
思わぬ手塚の登場に心臓が跳ね、あたふたと乱れているであろう自分の髪を撫でつけた。

「すまない、
「あ、え、えっと……うん、大丈夫。こっちこそごめん。えっと、なんか用?」
「副会長から手伝いの生徒がここにいるから渡して欲しいと差し入れを預かってきた」
「あ、そっか。わーい! ありがとう! って、アレ?」

 手塚の手元にあったビニル袋を覗き込むと、そこには栄養ドリンクがダースで一セット入っているのみだった。
おそらく、いちいち個別の差し入れを買うのが面倒になったか、予算の都合だろう。もともと別にお駄賃を期待してやった手伝いではないから文句を言うつもりはないが、暖かいココアを飲むつもりだったのに、それが急に栄養ドリンクに取って代わられればなんとも微妙な気持ちになる。
 どうかしたか? と不思議そうに尋ねる手塚に、とりあえずお礼を言って、袋から栄養ドリンクを一本受け取った。


 窓の外を見れば野外ステージの照明が眩しく光っていた。その周りでジャージ姿の生徒がまだ何人も慌ただしく作業しているのが見える。
気がつけば外は完全に夕日が沈み、夜が訪れようとしていた。本来なら下校時刻だと注意する立場の手塚も今日は仕方がないと見て見ぬふりをしているみたいだ。
 瓶の蓋を開けて栄養ドリンクを喉に流し込む。久しぶりに飲む栄養ドリンクは案外美味しかった。
チラリと盗み見た手塚も私の隣に並んで同じものを飲んでいた。こんな風に二人っきりになるのは初めてだから、何をしゃべったらいいか戸惑う。ドリンクが飲み終わってしまい、手持ち無沙汰になって焦った私はつい思ってることがそのまま口から出てしまった。

「手塚さ、栄養ドリンクすっごいよく似合うね」
「そうか?」
「うん。ほら、プロのスポーツ選手ってテレビCM出たりするでしょ? 絶対、手塚オファー来るよ」

 屈強な二人の男が崖や吊り橋で危険な目に遭うも、お決まりの掛け声で活を入れあい、力を合わせて危機を脱する。そんなCMに出ている手塚が目に浮かんだ。

「知っていたのか」
「へ? 何が?」
「俺がプロになることだ」
「あ、……ごめん。えっと、うん、知ってた」

 手塚かが不二か、と苦々しげに呟いたので、曖昧に頷いておいた。

「ドイツに行っても頑張ってね」
「あぁ、や他の奴らにも恥ずかしくないよう、精一杯努力してくる」

 しっかりと胸を張り前を向く手塚はとても格好良い。こんな素敵な人を好きになれて良かったな、と素直に思えた。
最後に手塚とこんな風に話せて良かった。これでなんとか自分の気持ちに折り合いをつけられそうだ。

「あ、じゃあ、そろそろ私帰ろうかな。頼まれてた仕事は全部その机に置いてあるから」

 それじゃあまた明日、そう言って自分の荷物を持って部屋を出ようとしたとき、手塚が私を呼び止めた。





 振り返って手塚を見ると突然彼の口からトランプが溢れ出した。
あまりにも突然な出来事で私が目を丸くしたまま固まっていると、見逃したと勘違いしたのか同じことをもう一度やってくれた。
 去年のマジックショーを彷彿させるその様に堪えきれなくなり、次の瞬間、私は思いっきり吹き出していた。

「え! 何コレ! 何で? てゆーか手塚凄い! え! でも、いきなり何で?」

「好きなんだろう?」
「へ?」

 手塚が発した“好き”という言葉にドキリッとする。自分の気持ちがバレているのかと思い、息を飲んだ。

「手品」

「あ、そっち」

 拍子抜けして肩の力が抜けた。

「“そっち”とはどういうことだ?」
「いや、何でもないの。忘れて」

 失笑しながら手を顔の前で振る。自分の気持ちが全くと言っていいほど伝わっていないことは、自分が一番よくわかっていたじゃないかとおかしくなった。

「悪いが今は用意がなくてこんなことくらいしか出来ない。今日のせめてもの礼にと思ったんだが……」
「いや、十分だよ、ありがとう。でもなんで私が手品好きだって思ったの?」

 笑いすぎて出た涙を指で拭いながら、不思議に思って尋ねる。
手品が好きだなんて公言した覚えはない。というか別に好きなわけじゃない。
手塚が一生懸命やっていたからあのショーに感動しただけで、手品自体には今でもさして興味はない。

「去年、文化祭に関するアンケートで」
「うん?」
「自由欄いっぱいに俺たちのステージの感想が書いてあるものがあったと、集計した副会長がわざわざ俺に見せてくれたんだ。なんとなく、ではないかと思っていたんだが……」

 違うか? と手塚が私を見た。
 突然あのラブレター擬がちゃんと本人に届いていたことを一年越しに知り、しかも絶対に自分だとはわからないと思っていたのに、それすらも彼には伝わっていたことに驚愕する。
 まるで落としたガラスの靴を王子様に差し出されたみたいだ。
魔法使い兼王子様なんて乱暴な配役ありえないし、私がお姫様なんておこがましいことは重々承知だ。
でもこの奇跡を他に何と例えたらいいのか、ちょっと今は思いつけないから許してほしい。
 小さな奇跡が、やっとのことで押し込めた恋心を再び揺さぶり起こした。自分の気持ちに知らん顔してこのまま忘れてしまうなんて、こんな奇跡を知った以上もうできそうにない。
 この恋をそんな風に終わらせてしまったら、私はきっと一生後悔する。

「あんな拙いステージでも確かに喜んでくれた人間がいたんだと勇気付けられた」

 手塚がほんの少し微笑んだ様に見えたが、涙で滲んだ視界だから気のせいかもしれない。

「手塚」

 目を見つめて名前を呼んだだけで、胸が苦しくなる。
大きく深呼吸をしてから、「明日の文化祭、ちょっとの時間でもいいから私と一緒に回ってくれませんか?」と勇気を振り絞って手を差し出た。
ややあって大きくて温かい感触が私の手を優しく包みこんだ。





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