※悲恋注意!
※若干不健全で千歳がまぁまぁサイテー

 いつも通りふらりと出かけて、あてもなく放浪して、そういえばしばらく自分の布団で寝てないな、なんて思って帰ってきた。そういえば、大学にはここ二ヶ月くらい行っていない。

 足音が甲高く響くおんぼろアパートの外階段を上がると、自分の部屋の前に何か見知らぬ“塊”があることに気がついた。暗くてよく見えず、目を凝らしながら近づけば、もぞりとそれが動く気配がした。

「あ、千里。おかえりー」

 そこにあった“塊”は、彼女だった。
今しがた眠りから覚めたらしい彼女は何度かゆっくり瞬きをして、俺の名前を優しく呼んだ。

「どぎゃんしたとね」

 膝を抱えてしゃがみこんでいた彼女に慌てて手を貸して立たせる。こんなところにいたことにもドキリとしたが、それ以上に握った手が異様に冷たくて驚いた。

「いつからおったと?」
「んっと……七時くらいかなぁ?」

 さっき寄ったコンビニで見た時計は確か二十三時過ぎを示していた。ならば彼女はこんなところに約四時間もいたことになる。彼女は薄手の上着を着ていたが、夕刻過ぎからこんな日の当たらないところに長時間いれば身体は芯から冷えるに違いない。
 まだ眠そうに目元をこすりながら彼女は気の抜けた欠伸をした後、二回連続でくしゃみをした。

「珍しかね。なんか急ぎの用事でもあったと?」
「ううん。ちょっと会いたくなったから、来ちゃった」

 フフフッと彼女が俺を見上げてはにかんだ。それ自体はとても可愛らしい仕草なのに、俺は胃に変なものを押し込められたような気分になる。
 普段、彼女はこんなことは絶対にしない。真面目でしっかり者、几帳面で、何より常識を重んじる。そんな彼女が今日はどうしてか何の約束もなしにここに来た。不自然に思わないわけがない。
 けれど「お邪魔します」と丁寧に挨拶する彼女の横顔を窺い見ても、彼女の真意はわからなかった。



「今日、学校行ってたと?」

 やかんをコンロに置き、火にかける。戸棚を開けてお茶っ葉を探しながら、後ろの部屋で寒そうに縮こまっている彼女に話しかけた。
しばらくぶりに帰った部屋は冷え切っていて、ヒーターをつけてもなかなか暖まらなかった。

「ううん。今日はサボっちゃった。どうせ午前の講義だけだったし、出席日数は足りてるから、たまにはいっかなって」
「良か良か。は頑張りすぎったい」
「そうでもないよ。てゆーか、千里はもうちょっと頑張った方がいいかもね。進級、大丈夫?」
「実技の課題ばちゃんと出しちょるけん、大丈夫」
「そっか。それは安心」

 彼女に湯のみを手渡して、自分も隣に腰を下ろした。彼女はまだかなり熱いそれをちびりと舐めるように飲んだ後、不思議そうな顔をして俺を見上げた。

「ねぇ、これ何?」
「ただのお湯ったい。お茶っ葉、切れちょった」

 一瞬の間を空けて、彼女は「千里らしい」と吹き出した。ふっ、と彼女の周りの空気もそれに合わせて緩む。さっきまで彼女に感じていた違和感はもう蓋をして見なかったことにしてしまっても構わないほど小さくなっていた。
 彼女をゆっくりと抱き寄せ、腕の中に閉じ込める。彼女に触れるのはいつぐらいぶりになるだろう。最後に彼女を抱いたとき、確か俺はまだ半袖を着ていたはずだ。

「千里、おかえりなさい」

 今日二回目のその言葉に応える代わりに、俺は彼女を畳の床に組み敷いた。





 喉の渇きで目が覚めて、布団から這い出る。手探りで放ってあったよれよれの部屋着を探し、下だけ身につけて台所へ向かう。
そしてグラスで水道水を二杯飲み干した後、元いた奥の部屋に戻った。

 眠っている彼女の髪を撫でて自分もまた布団に潜り込もうとしたとき、部屋の隅に自分の携帯電話が転がっているが目に入る。それではじめて自分が今回の放浪中、携帯電話を所持していなかったことに気がついた。
そういえば中学生の頃、同じ部活の連中(主に部長)に携帯電話は携帯せんかったら何の意味もないんやで! と、しょっちゅう怒られていた記憶が昨日のことの様に蘇る。自分はあの頃から本質的に何も成長していないんじゃないかと苦笑いが溢れた。

 手を伸ばし、携帯電話を拾う。ホームボタンを押して起動させれば、そこには着信履歴がスクロールしなければ全て確認できないほどズラリと羅列されていた。三十七件。全て彼女の名前が記されていた。
俺が携帯電話から視線を上げると、彼女が目を覚まして俺を見つめていた。ビー玉みたいな彼女の瞳が部屋の少ない明かりを拾ってキラキラと輝いていた。

「見ちゃった?」
「あぁ、電話出られんですまんね」
「うん、いいの。別に大したことじゃないし」
「ばってん、三十七件もあったい」
「あれ? そんなにあった? んー……出ないことわかってたんだけどね、たまに出てくれるときもあるじゃない? だからあともう一回、あともう一回って、かけちゃってさ。てゆーか、私そんなにかけてたんだ……三十七件って、さすがに引くよねぇ」

 アハハッと彼女が乾いた声を上げて笑った。せっかく蓋をして知らないフリを決め込んでいた違和感が急激に膨らんで警報を鳴らす。

「……良かよ。引かんけん、好きなだけかけてこんね。今度から出るように気をつけるばい」
「ううん。もうかけないよ」
「なしてね?」

 彼女が起き上がり、俺の前に座った。
窓から差し込む僅かばかりの月明かりが、彼女の身体の縁を滑らかに走っている。綺麗だな、と思わず手が伸びかけたとき――


「千里、もう終わりにしよう」


 彼女の凛とした声が鋭い切っ先になって俺を一突きにした。
俺の手は彼女に触れる前に、ぽとりと音を立てて布団の上に落ちる。

「なんしや? 俺んこつ好かんくなったと?」
「好きだよ。でも、別れたい」
「どぎゃんしても?」
「うん、そうだね。どうしてもかな」

 彼女は微笑んでいた。
何でも許してくれそうな慈悲深い笑みを浮かべながら、絶対に覆せない強い拒絶を示している。

「……なら、もっかい最後に抱かせんね」

 最後に言う台詞がこんなんだからフラレるんだ。しかも「いいよ」と答えた彼女を何の躊躇いもなく抱けるんだから、救いようがない。
ただひたすらに彼女の身体を揺さぶれば、それに応えるように彼女の爪が俺の背中に深く食い込んだ。
そこから彼女の気持ちが俺に染み込んでくれればいいのにと思ったが、すぐにそんなことどうでもよくなった。


 彼女が俺の放浪癖を咎めることは今まで一度たりともない。
優しく笑って「おかえり。今回はどこに行ってきたの?」とお土産話をねだられるくらいで、そんな態度に拍子抜けしたのはこっちの方だった。

本当は「寂しかった」と泣いて欲しかったと言ったら、彼女はどんな顔をしただろうか。



 朝、目を覚ますと隣にあったはずの彼女の温もりはなかった。なんとなくそんな予感はしていたからあまり驚きはない。
ダイニングテーブルにはラップがかかった状態の朝食が用意されていた。最後まで、彼女のことはよくわからなかったな、と思いながらその朝食に手をつける。独りっきりの食卓。慣れた風景だ。
お湯を沸かした後、お茶っ葉を切らしていたことを思い出し、また白湯を飲む羽目になった。


「あ、君!」

 家から出ようと鍵をかけていると、外を掃除していたここのアパートの大家に話しかけられる。

「ああいうの困るんだよね」
「なんがですか?」
「女の子が君んちの前でしゃがみ込んでただろう? もう寒いし、夜は危ないから止めさせてね」

 はぁ、と軽く頭を下げて謝った。そして心の中だけで、やめさせるも何も彼女はもう二度とここには来ませんよ、と呟く。

「にしても凄いね、あの子。君のこと、丸一日以上そこで待ってたよ」



 携帯電話を確認すると彼女の最後の着信は昨日ではなく、一昨日の朝七時だった。

 彼女が最後に残した背中の傷が綺麗にさっぱり消えさる頃、ポストに消印も差出人の名前もない手紙が一通届いた。

そこには綺麗な文字で「さようなら」と俺が一番聞きたかった言葉が綴られていた。




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