彼女が起きているかどうかは賭けだった。
時刻はもうとっくに日を跨いでいる。普段の彼女ならおそらくベッドの中で規則正しく寝息を立てている頃だろう。
けれど、今日はきっと違う。たぶん、いや絶対。
 彼女のマンションの前で車を止めて、ポケットからケータイを取り出した。履歴から彼女の名前を探し、通話ボタンを押す。
 呼び出しの電子音がやけに大きく聞こえた。

〈もしもし〉
〈もしもし〉
 三コール目の途中で、彼女のくぐもった声に切り替わる。

〈今から、ちょっと、出て来れんかのう?〉
〈……今から?〉
〈そう、今から〉

〈……わかった〉

 タバコが一本吸い終わる前に彼女が先ほど会っていたときと同じ格好で自宅のマンションの玄関から出てきた。それを向いの道路から見つけて手を挙げてから、タバコを携帯灰皿でもみ消す。
 深夜でほとんど車の往来のない広い車道に彼女の足音が響く。助手席の扉を開けて彼女に座るように目で促せば、彼女は一瞬悩むような素振りを見せたものの、結局何も言うことなくそのまま車に乗り込んだ。
 それを見届けてから、自分も運転席に回り、ドアを閉める。

 パタン

 途端に外部から遮断され、プライベート空間に二人っきりになった。バックミラーでちらりと確認した彼女の表情は険しい。車内は彼女が発する不機嫌オーラで、たちまち満たされ支配されていた。

「ほんじゃ、行こうかのう」

「何処に?」という当然の質問は彼女から返ってこない。 気にせずエンジンをかけて、カーナビを起動させる。彼女はやっぱり何も言うことなく、シートベルトをした後は俺にそっぽを向いたまま窓の外を睨んでいるようだった。彼女が一度怒らせると面倒くさいタイプであることを今日初めて知った。 ため息をつきたくなるが、ぐっと我慢する。早く機嫌を直して、いつもの彼女に戻ってほしい。
 カーステレオに繋いでいたiPodを彼女に手渡し「なんか好きなのかけんしゃい」と言ったが、発進してからも一向に音楽が鳴る気配はなかった。


◇◆◇


 学生時代、彼女とは部員とマネージャーという関係だった。特別仲がいいわけでも悪いわけでもなく、部活のときに必要十分な二言三言を交わすくらいの仲。だから今の関係を元部員たちが知れば驚くことだろう。
 真面目でしっかり者で、面倒見がいい彼女は部員たちから姉のように慕われていていた。グラウンドにいる彼女はいつも袖捲りをしたジャージ着で、一生懸命ドリンクや洗濯物を持って走りまわっていた後ろ姿ばかり思い出す。俺とは正反対のタイプの人間、そんな風に当時の俺は思っていた。
 そんな彼女とクラスが一緒になったのは高校三年生のときだ。彼女も自分も内進生にもかかわらず、同じクラスになったのは最後のこの年だけだった。六年間で最後の最後。クラス分け発表の掲示を見たあと、始業ギリギリに入った教室で最初に声をかけてくれたのは彼女だった。

「仁王、おはよう。クラス、一緒になるの初めてだね。よろしく」

 俺はそのときなんて返事しただろう。覚えていない。ただ教室で会う彼女はグラウンドで会う彼女より、幾分か幼くみえた。違う、年相応の十七歳の同級生の女の子に見えたんだ。それがなんだか新鮮で、気恥ずかしかったのだけは覚えている。
 同じ教室で過ごすうちに彼女の今まで知らなかった一面を自然と目にするようになった。勝手にもっと絵に描いた優等生なんだと思っていたが、案外そうでもないらしい。
 教室で仲のいい女友達たちとはしゃいでる姿、テストで納得のいかない点を取ったときのふてくされた様子、男子顔負けの大きな弁当を美味しそうに頬張る表情、どれもたわいのない日常の一コマ。いつの間にか俺の視界の隅っこには彼女の特等席ができていた。

「柳生?」
「あぁ、さん。仁王くんを見ませんでしたか?」
「仁王がどうかしたの?」
「まったく、今日こそ風紀委員に提出する反省文を書いていただかなければと思っていたのですが、逃げられてしまって……」
「あらら。仁王ならさっき購買の方で見たよ」
「そうですか、ありがとうございます」

 屋上に続く階段を登りかけていた柳生は彼女の助言に従い、踵を返して購買の方へと降りて行った。足跡が完全に聞こえなくなってから、身を潜めていた階段の踊り場からひょこりと顔を出せば、彼女は人差し指を口に当ててこちらを向いて悪戯に成功した子供のように笑っていた。
 他人の不真面目さには寛容らしい。これも初めて知った彼女の一面だった。


 部活を引退した二学期、初めて彼女と一緒に帰った。
別に約束していたわけじゃない。たまたまお互い一人で、帰り道が一緒だっただけだった。俺はサボりにサボっていた授業の補習。彼女は委員会で残っていたらしい。下駄箱で偶然鉢合わせになり、そのまま一緒に正門をくぐった。
 海沿いの道を鈍い風を受けながら縦に並んで歩く。彼女の影が斜め四十五度に引き伸ばされ、地面にくっきりと張り付いているのをなんとなく眺めながらズボンのポケットに手を入れ、駐輪場に置いてきた自転車の鍵を弄んだ。
会話はほとんどなく、波の音とときおり通る車の音がBGMの役割を果たしていた。いつもならすぐに遠くへ行ってしまう彼女の背中も今日はずっと一定の距離を保って自分の目の前でゆっくりと揺れている。

「あ」と急に彼女が立ち止まった。何かと思い、彼女の目線の先を追うと、赤く揺らいだ陽がふるふると遠くの海に飲み込まれようとしているところだった。
 今までこの時間はまだ部活をしていたから、こうやってゆっくり眺めるのは久しぶりだ。俺も足を止めて、二人で夕日を見つめた。毎日繰り返されているはずの光景なのに、今この一瞬が奇跡なんじゃなないかと思えるほど、その日の夕焼けは美しかった。

「仁王」

 彼女が俺の名前を夕日を見つめたまま呼んだ。茜色が彼女の横顔を照らしている。

「なんじゃ」

 彼女が言おうとしている言葉が音にせずとも俺の耳にはもうすでに届いていた。だから言わなくていい。言わないで欲しい、そう願った。

「ん、なんでもないや。綺麗だったね。さ、早く帰ろうか」

 彼女は前に向き直り、また歩き出す。もう一度海に目を向ければ、夕日は完全に海に呑まれ、天は星をたずさえていた。
 俺はほっと胸を撫で下ろす。これで明日からも彼女とこのまま一緒にいられる、そう思った。

 怖かったんだ。今の関係を壊すことが。
彼女が俺にだけ特別な態度をとるようになったことに気づいたのは、俺の視界に彼女の特等席ができて程なくしてからのことだった。
 俺の名前を呼ぶとき、ほんの少し声が上ずり、一瞬すごく苦しそうな表情になる。けれど俺が返事を返せば、たちまち春が来た野山のようにふんわりと幸せそうな笑顔に変わる。名前を呼ばれて返事をしただけなのに、えらく大層なことをしたような錯覚に陥いって居心地が悪い。彼女の真っ直ぐな気持ちが俺を息苦しくさせた。
 できればもうしばらくはこのまま曖昧な距離を保っていたかった。のらりくらりと物事の表面のみをさらってと生きてきた俺にとって、彼女と向き合うことはそれ相応の覚悟が必要に思えた。生憎、そのときの俺にはそんな覚悟毛頭なく、けれど彼女を離したいわけでもないからややこしい。
 多分、彼女はさっきの一瞬でそんな俺の甘ったれた考えを察した。だから言いかけた言葉を捨てて、なんでもないように歩き出してくれた。
 彼女は優しい。俺はそんな彼女に甘え続けた。

 高校を卒業してからその後も彼女との甘ったれた交友関係は続いた。
俺は大学、彼女は専門。二年早く社会に出た彼女との溝ができかけたときもあったが、俺が社会人になればすぐに埋まる程度のものだった。
 あの頃は呑めなかった酒を二人で呑む機会が増えた。彼女は意外と酒豪で、おそらく俺より強い。可愛い顔をして日本酒を熱燗で一升空けたときは流石に驚いた。こんなに長い間一緒にいてもまだ新たな一面を発見できるんだと彼女の引き出しの多さに感心する。

 今日もすっかり馴染みになった居酒屋で二人で呑んでいた。やたら大きなほっけをつつきながら、俺がまだ一杯目のビールにほんの少し口をつけただけなのに、彼女が六杯目を頼もうとしたとき、

「もうそろそろケジメをつけようかと思うんじゃが、どうかのう?」

 と切り出した。海産物が看板メニューのこの店は、そこらじゅうに磯の匂いを漂わせていて、懐かしい気分になる。彼女とよくここに来るようになったのはきっとそのせいだ。

 何もお利口にずっと彼女を見つめていたわけじゃない。大学生の頃はそれなりに遊んでいたし、社会人になってからも特定の異性がいたときもあった。彼女だって二つ上の会社の先輩と一時期付き合っていたらしい。別れたあとに聞かされた。
 あれから長い月日が経ち、俺の隣をいろんな奴が通り過ぎては見えなくなった。けれど彼女だけが今もずっと俺のほんの少し前をゆっくり歩いている。あの日の背中を俺は終に忘れることができなかった。もう誤魔化したくない、そう今更勝手に思ってしまった。

「な、にそれ……」
 彼女は心底驚いたようで、必死に喉から音を絞り出しているかのようだった。

「もうお互い良え歳じゃし、ここらで折合いをつけてーー」

 俺が言い終わる前に、彼女は持っていたグラスの酒を全部俺にぶちまけた。
グラスをガツンッとテーブルに叩きつけ、彼女は素早く立ち上がると、自分の鞄を引き寄せ、財布からお札をいくらか置き、止める間もなくそのまま居酒屋を出て行ってしまった。慌てて店員がおしぼりを持ってきてくれたが、しばらくの間、俺は放心状態のまま動けなかった。
 彼女が本気で怒ったのを初めて見た。眉間にありったけの皮膚をかき集め、下唇を食いしばり、瞳には涙が浮かんでいた彼女の表情を思い出して、深いため息が漏れた。
 最後まで核心に触れようとしなかった俺にとうとう彼女の寛大な精神も限界が訪れたらしい。今まで許されていたこと自体が奇跡的で彼女の温情以外の何物でもないのだから、俺に文句を言う資格はない。どうしたものかと途方に暮れたのは、もう今から十時間も前のことだった。


◇◆◇


 車を止め、車内に彼女を残して、のぼりがはためくチェーン店に入った。食券を買って、店員に差し出し、会計をし終える頃にはもうすでに注文の品は用意されていた。店の奥には客が入った瞬間もしくはその前から何を頼むかわかるエスパーが雇われているんだと疑いたくなるような早さだった。

「何それ」
 車内に戻ると彼女がようやく重い口を開いた。
「牛丼」
「……なんで牛丼?」
「お腹空く頃じゃろうと思うてのう。ほれ、大盛り」
「空いてない。てゆーか、なんで大盛り」
「嘘言いんしゃい。いつもは居酒屋出たあと締めに絶対ラーメン食いたがる奴が枝豆とチャンジャとほっけでお腹いっぱいになるわけなか。俺の前では見栄はらんでもええじゃろ。たんと食べんしゃい」
「空いてないったら空いてない。見栄も張ってない」
「ラーメンじゃなくて悪かったのう」
「ねぇ、人の話聞いてる? 空いてないって言ってーー」
 という彼女の言葉を遮って車内にぐぅという気の抜けた音が鳴り響いた。最高なタイミングに思わず噴き出せば、彼女は車から降りようとしたので、腕を掴んで止めさせる。

「目的地で食べようかと思っとたけど、俺も腹が空いてきたから、ここで食うとするかのう」
 まだ暖かいそれをビニル袋から取り出す。大盛りのそれと並盛りのそれを、彼女にどっちがいいかと差し出せば、彼女は観念したように俺の手から大盛りの方をひったくった。
 こんなときにでも、食べ始める前にきちんと手を合わせて挨拶するところがなんとも彼女らしい。それを横目に俺も手を合わせて割り箸を割った。


 人は腹が満ちていると心もわずかばかりか落ち着きを取り戻す。先ほどまでハリネズミのようなだった彼女も例外なく、今は警戒心の強いウサギくらいに落ち着いていた。
 彼女が操作したiPodから音楽が流れてくる。レトロフューチャーな電子音が優しく車内に響き、くり返されるフレーズに自然とハンドルを握っていた指がリズムを刻んだ。
 長らく続いた代わり映えのない住宅地と木々の合間から目的地を予感させるものが見えて、窓の外を眺めていた彼女がハッとした。腰を浮かし、流れすぎてゆく景色に言葉なく驚いている様子だった。換気のため数センチ開けていた窓から、懐かしい香りがする。久しぶりに嗅いだその匂いは、さっき居酒屋で嗅いだ匂いとは全然違うことに気づき小さく笑った。

 一時間と少しのドライブと牛丼をへて、たどり着いた先は慣れ親しんでいた神奈川の海辺だった。



 立海生は節目節目にここへ来る。俺も部活の仲間や過去の恋人たちと幾度となくこの海辺へ訪れた。けれど最後にここを訪れたのはもう随分昔の話だ。“これからおやすみの方もそしてお目覚めの方も”で始まるのニュースの時刻である。白みはじめた空と凪いだ海の果てに明日が産声を上げようとしていた。

 車を止めて、浜辺に降りる。
彼女も同じ元立海生だ。すっかり懐かしい風景に心奪われ、先ほどまでまだ一握り残っていた怒りも完全に消し飛んでるようだった。ヒールのある靴では歩きにくいことに気づいた彼女は、ためらうことなく裸足になる。そのまま靴を手に持ちながら、波打ち際に楽しそうに足跡を残す後ろ姿を黙って見守った。

 ここから見える夕日も朝日も、はざまのこの瞬間を一緒に過ごしたいと思ったのは後にも先にも彼女だけだ。
 点ばかりで紡むいでいた過去をこれからは線にしたい。何度も重ねた季節に無意味が降り積もり、意味をつくった。





 波が彼女の足を撫でてその冷たさに彼女が驚き、躓きそうになる。そんな失態を誤魔化すかのように彼女が振り返って笑った。
 彼女のシルエットが光で曖昧にボケて、十七歳だった頃の彼女に重なる。
 あの日、夕日と一緒に海に飲み込まれてしまった彼女の言葉を今度は俺が言おう。


、俺はお前さんのことがーー」


 十年の月日をかけてやっと長い夜が明け、二十七歳の俺が十七歳の彼女の手を取った。





◇おまけ◇

 砂と海水で汚れた足を持ってきていたタオルで拭い、先ほど脱いで手に持っていた靴を履き直す。

「眠かったら寝んしゃい」

夜通しつきあわせてしまったので、今更ながら申し訳なくなる。

「うん、でも助手席の人が寝ちゃったら退屈になっちゃうでしょ?」
なんでもない風に彼女はそう言って、助手席に乗り込んだ。

二人でいるときは酒を飲むことが多かったから、彼女を自分の車の乗せたことはあまりなかった。しかし思い返せば、その数少ない記憶の中全てに彼女が眠っている姿はない。
そんな些細な気遣いを自然にできる彼女が素直に愛しく思えた。
シートベルトを締めている隙を狙って彼女の唇を奪う。

「び、っくりした」

文字通り鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をして彼女は驚いている。大きく見開かれた瞳を何度か瞬させると、みるみるうちに頬が赤くそまり、俯いてしまった。

「嫌じゃったかのう?」

わざとらしくそう聞くと彼女は必死に首を横に振った。好きな子を苛めたいなんてどこのガキだ。
彼女といると時折十七歳だった俺が顔を出す。こんなことばかりしていたら早々に愛想を尽かされてしまうと自分を鎮め、エンジンをかけるためキーに手を置いた。すると横から彼女のしなやかな指が伸びてきて、俺の手に重ねられる。

「嫌じゃないから、もう一回、ちゃんとして」

今度はこっちが面食らう番だった。
けれどすぐに我に返り、彼女の可愛いお願いに応じる。ぎこちなく、けれど懸命に俺に応えようとする彼女の姿がいじらしくて高ぶる。しかし調子にのった結果、彼女のことなんかお構いなしといった状態になってしまい、最終的には鳩尾に一発、衝撃波を喰らう羽目になった。

今日は彼女をよく怒らせてしまう日だ。




inspiration by music:tofubeats『くりかえしのMUSIC feat. 岸田繁』&RIP SLYME『黄昏サラウンド』