※幸村に関して新テニ要素のネタバレあり





 怖い!

 寝ても覚めても聞こえてくるアルトヴォイス。
怖い。本当に怖い。ここ数日、私は神の子の怒涛の精神攻撃に悩まされている。

 朝、登校した生徒たちが賑わう昇降口で、「おはよう、」。うん、まぁ、これは普通だ。私も「おはよう」と返して、彼の隣をすり抜け足早に自分の教室へ向かう。
 授業の合間の五分休み、「ねぇ、、世界史の資料集貸してくれないかな?」。うん、まぁ、これもいいだろう。でもわざわざ離れたクラスの私のところへなんて来ないで隣のクラスの丸井たちとかから借りればいいのにって思う。
 三限目の体育からの帰り道。廊下を歩いていると、「、さっきすっ転んでたね。大丈夫だったかい?」。うん、心配してくれてありがとう。でも授業中だったよ? どうやって見てたの? 怖くて聞けない。
 昼食後の昼休み。授業が始まる前、「あ、、口のとこ、米粒ついてるよ。鏡、ちゃんと見たの?」。そうだね、あんまり見てなかったかもしれない。でもね、そんなことよりここ女子トイレの前なんだけど。私が出るの待ってたの? いつから? ていうかなんで?

 怖い! 怖い! 怖い!

 これが毎日。もうしばらく続いてる。周りの友人たちも初めは面白がってたものの、最近では本気で引いている。そりゃそうだ。
でも相手があの幸村精市だから誰もツッコめやしない。
 一度柳が「大丈夫か?」と聞いてくれたので、「大丈夫じゃない」と素直に伝えれば、「すまないな」と謝られた。柳からの謝罪の言葉なんて望んでないし、意味がない。お願いだから、どうにかしてもらえないかと頼んだが、やっぱり「すまないな」と謝られて終わってしまった。

 もう部活を引退している彼は、下校時も私を昇降口で待ち伏せするのが日課になっていた。私はそんな彼をかわすために、できるだけ人が多い時間に紛れこもうとしたり、チャイムと同時に走ったり、いろいろ作戦は練っているが、今のところ惨敗である。毎回あっけないくらい簡単に彼に捕まってしまう。
 友達も友達だ。彼に見つかったが最後、一緒に帰る予定だったのに「邪魔しちゃ悪いし、先行くね」と顔を引きつらせて、私を容赦なく置いていく。薄情者! と罵ってやりたいが、先ほども言った通り、相手は幸村精市だ。彼女たちの気持ちもわかる。この学校で彼に逆らえる人がいるのなら、是非教えてほしい。もしいるのならば私のパーティーに加えて、魔王と一緒に戦ってほしいと土下座くらいなら平気でするだろう。それくらい今の私は追い詰められているのだ。
 今日も今日とて、魔王・幸村から逃げるため、ない知恵を絞り策を練る。とりあえず今日はしばらく校内に隠れて、頃合いをみて一階のトイレの窓から脱出を図ることにした。上履きのまま帰宅する羽目になるが、もうそんなことはどうだっていい。とにかくもう彼に会いたくないのだ。

 窓枠から上半身を乗り出し、右見て、左見て、もう一度右を見る。
校舎裏に人の気配はない。今日はどうにか逃げられそうだ。
鞄を先に窓から放り、窓枠の上部に捕まりながら、自身も飛び降りようとしたその瞬間。



 よく知った声で名前を呼ばれ、背筋が震え上がった。
そのままズルリと足を滑らせた私は着地に失敗し、膝を細かい砂粒や硬い土で擦りむいてしまった。

「何馬鹿なことしてるんだよ。血が出てる。立てるかい?」

 彼は私に近寄って、自然な仕草で手を貸し立ち上がらせてくれた。俯いたまま動かない私のかわりに制服についた土埃を手で払ってくれる。
なんでここにいるんだ、と聞きたいのに、声が上手く出せない。

「よくこんなとこから出ようなんて思ったね。ある意味尊敬するよ。ほら、とりあえず、あっちの水道で傷口を洗いに行こう」
 そう言って、彼が落ちていた私の鞄を拾い、誘導するように私に手を伸ばした。
途端、地獄の底から数限りない罪人が自分の下で蜘蛛の糸に手を伸ばす光景が見えた。


「もう、いい加減にしてよ!」


 気がついたら、私は彼の手を払いのけ、悲鳴にも近い声を上げていた。後ずさり、彼から離れる。
もう限界だ。ずっと我慢していた感情が爆発する。

「私、ちゃんと“ごめんなさい”って言ったよね?」

 そうだ。こんな日々が始まる前日、私は彼から告白されていた。

「幸村とは付き合えないって、ちゃんと言ったよね? 覚えてるでしょ? なのになんで……」

 “好きなんだ”、彼が私の目を見てはっきりそう言ったことはたぶん一生忘れない。

「なんで、こんなことするの……もう、いい加減にしてよ……」
 喉が震えて声が掠れた。涙が滲んで視界をぼかす。

「そうだね。でもさ、俺、“ごめんなさい”だけじゃ諦められないんだ。ちゃんと理由を聞かせてくれないかな?」
 落ち着き払った声が再び私に詰め寄り、今度は容赦なく腕を掴んだ。それを必死に振りほどこうとするが、彼はさらに力を込めて私を逃さまいとする。
嫌だ、嫌だ、と首を振り、大暴れして抵抗する様は端から見れば、歯医者に行くのを怖がる子供のよう見えるに違いない。きっととっても滑稽な姿だ。

「私には、幸村は無理なの!」
「どうして?」
「どうしてでも!」
「俺は、が好きだよ。ずっと。ずっと好きだった」
 そんな言葉、もう聞きたくない。しかし耳を塞ごうとする私の腕を彼が力づくで押さえつける。
ギリギリと締め付けられているのは両手首のはずなのに、それより心が痛くてしかたがない。 できれば自分のこんな醜い胸の内など晒さずに、さよならしたかった。なのに、彼はそれすら許してくれない。私を締め付ける力は弱まるどころか、どんどん強くなる。



「……病気、治ってないんでしょう?」
「知ってたんだ」
 ポツリと呟いた私の小さな声を拾い、彼がふっと笑った気配を感じた。それを確かめるために、彼の顔を見上げると、眉尻がとても儚げに下がっていた。

「私、もうあんな思いするの耐えられない」
 彼が私の前から突如いなくなった数ヶ月間の記憶が次々と蘇り、じわりと手に汗が滲んだ。

 二年生の秋、いつも通りの月曜日。朝、教室に着くやいなや、隣のクラスの柳が私を廊下に呼びつけた。柳は私に「落ち着いて聞け」と前置きをしてから、彼が倒れてそのまま長期入院しなければならないほどの病気だということを言った。聞いてもすぐに理解ができず、ただ柳の声が目の前を通り過ぎていく。次第にその声もどんどん遠くなり、いつの間にかうまく呼吸ができなくなって目眩に襲われた。ぐらりと倒れかけた私は柳に支えられながら、保健室へ連れて行かれた。そのあと確か家に帰ったはずだが、どうやって家までたどり着いたのかは覚えていない。

 それから、その数日後柳たちが連れ立って彼のお見舞いに行くのに同行させてもらうことになったときのことも思い出す。そのとき結局、私は彼の病室はおろか、病院の正面玄関の自動ドアすらくぐることができなかった。
足がそこから一歩も動かなくなり、終いには膝をついてわんわんと泣き出してしまった私は一緒にいた彼らを困らせた。
その後も、何度も病院に足を運んではみたが、やっぱり入り口から先へは入れなかった。
 会いたいなのに、会いたくてしかたがないのに、どうしても会いに行けなかった。どんな顔をすればいい? どんな話をすればいい? どんなに風にするのが正解? 考えても考えても胸が苦しくなるばかりで、永遠に答えにたどり着けない。毎日のように自室に閉じこもり、じっと膝を抱えて泣いていた。もし、元気な頃の彼が今の私を見たら、きっと頭を優しく撫でてから「不細工な顔になってるよ」と意地悪なことを言っただろう。そんなことを思っては、また泣いた。

 彼が、大切な人が、大好きな人が、自分の前からいなくなるかもしれない。そんな恐怖もう二度と味わいたくない。だから、私は彼の告白を断った。
告白を受け入れて、付き合って、もっともっと彼を好きになって、もしまたあんなことになったらと思ったら正気ではいられなくなる。
 だから彼が無事復帰を果たし、二学期からは学校へも来ていることを知っても私は彼を避け続けた。忘れるために。全部なかったことにするために。

 幸い、私たちは良くも悪くもただの同級生だった。倒れる前、周りが私たちを「付き合ってるんだろ?」と冷やかしたときも、彼は落ち着き払って「まだだよ」って笑って、「ね?」と私に同意を求めた。思わず顔が赤く染まり、それを誤魔化すように彼を叩たこうとすれば、ひらりとかわされる。それを見た周りが、またそのことを囃したてた。彼はみんなと一緒に笑いながら、私を優しい瞳で見つめていた。私もやっぱり幸せな気持ちで彼を見つめ返していた。
 あの頃に戻りたい。無邪気に彼のことを好きだった自分に戻りたい。けれど、戻れないことは自分が一番よくわかっている。
 だから、このままそっと彼から遠ざかり、彼のことが好きじゃなくなるまで、ずっとひっそり身を潜めているつもりだった。それが彼に対する謝罪でもあった。苦しい時、自分のことばかりで、そばにもいれず、逃げ出して何の力にもなれなかったこんな奴、強い彼には相応しくない。

「怖い。私、幸村が怖い」

 彼といる未来が怖い。
当然のように彼の隣にいた能天気な自分も、苦しんでる彼から逃げた弱い自分も、なのにまだ彼のことが忘れられない浅ましい自分も、全部、全部、なかったことにしてしまいたかった。

「だから、付き合えない」

 いっそのこと薄情者だと罵って、私を嫌いになるべきなのは彼の方なのに、彼はどうしてか私を強く掴んで離してくれない。
 さらにあろうことか“好きなんだ”と言って私をさらに追い詰める。私がそれを強く拒めないことをいいことに彼は攻撃の手を決して緩めなかった。



 柔らかい透き通った声で私の名前を呼ぶ。

「俺だって本当は怖いんだ。でも求めずにはいられない。は違うの?」

 真っ直ぐ心の裏側まで見抜くような目で、私を揺さぶる。

「不確定な未来に怯えて君を手放すくらいなら、俺は君を道連れにするよ」



 プツンッと天から垂れた細い銀糸が、私の手のすぐ上で切れた。
二人揃って地獄に舞い戻ることはわかっているのに、何故か私は笑っていた。