「おっせーよ」

 ブン太がまだ校舎前にいるを見つけて叫んだ。それに気づいた彼女が「ごめん、ごめん」と言いながら駐輪場前にいる俺たちの方に駆けてくる。走ったもんだから彼女のマフラーの端が前にズレかかってしまっていたので、直してやった。
この時期、部活が終わる時間になると結構冷える。もうすぐ訪れるであろう季節を予感させる風にここにいた全員が身を震わせた。

「あ、お前、なんか食ってただろぃ!」
「はぁ? 食べてませんけど」
「いいや、俺の鼻は誤魔化せないぜ。俺にもよこせ」
 そう言ってブン太が思いっきり彼女に顔を近づけた。思わず彼女の代わりに眉間に皺が寄ったが、すぐにそれを打ち消す。
 以前、赤也と彼女が一緒にいるところを今と同じ気持ちで見ているときに、急に背後から現れた参謀に「お前も随分と可愛い顔をするようになったものだな」という気色の悪いことを言われたことがあった。それ以来、俺は極力顔に出さないように気をつけている。

「ちょっ、やめてよ、あ、もしかして……コレだ」
 彼女がブン太から身を引いて、代わりに自分の両手のひらを突き出した。クンクンと丸井がそれを嗅ぐ。ポーカーフェイスを気取ったまま、どのタイミングで止めにはいるのがベストか、自分の自転車のベルをいじりながら考えていた。
 彼女は気を許した相手に対して些か警戒心が低い。低すぎる。それを今すぐにでも注意したいが、自分のキャラクターを考えるとなかなかこの場ではできない。

「ソレだ! ほら、食ってたんだろぃ! よこせよ」
「馬鹿じゃないの。これハンドクリームの匂いだし」
「お前こそ馬鹿じゃねぇの。なんでハンドクリームからこんなうまそうな匂いすんだよ。下手な嘘ついてんじゃねぇよ」
「いやいや嘘じゃないし。ほら」
 彼女は自分のスクールバックを開けて、中から小さな銀色のチューブを取り出した。カチッと音を立てて蓋を開けて、ブン太の鼻に近づける。

「あ、ほんとだ。なんだよ、紛らわしいのつけてんじゃねぇよ」
「ブン太が勝手に勘違いしたんでしょう、知らないし」
「ほら、じゃあもう行こうぜ」
 ジャッカルが何にも入ってないスカスカのブン太のスクールバックを受け取り、すでに自分のスクールバックが入っていた前カゴに押し込んで、自転車に跨る。ブン太が当然のようにその後ろに立ち乗りして出発した。
 それに続き俺も後ろに横座りしたを乗せて、ブン太たちと同じ方向にペダルを漕ぎだす。彼女の手が俺のブレザーの下ポケット辺りをゆるく掴んだのを感じた。

「あー今の匂いで腹減ってきた。お前のせいだぞ! ったくコンビニでなんか奢れよ」
 すぐに前を走っていたジャッカルたちに追いついた。自転車をこぎながら受ける海風は本当に寒くて、こんなときは丸井の皮下脂肪が羨ましいくなる。
「いいよ。ね、ジャッカル」
「俺かよ!」
「出た! “俺かよ!”」
「お前ほんとそれ口癖な」
「誰のせいで口癖になってると思ってんだよ」
「ブン太でしょ」「だろぃ」
「どっちもだよ。お前らいい加減にしろ」
「てか、なんでさっきから仁王なんにもしゃべんねぇの?」
「……眠いナリ」
「はぁ? お前授業中ほとんど寝てるくせに意味わかんねぇ」
「俺はお前さんが毎時間なんか食ってるくせに、まだ腹減ってるってことの方が意味わからんぜよ」


 本当に腹が減ってるらしいブン太たちとコンビニの前で分かれた。「バイバーイ」とあいつらに手を振ったあと、「今日はいつもより早く二人っきりになれたね」と彼女が言ったのに対して曖昧な返事をして、自転車のペダルを漕ぐスピードを緩めた。
 彼女は寒いのか、先ほどまでブレザーの裾を握っていただけの手を俺の腰に回して、ぎゅうっと頬をすりつけてきた。柔らかなぬくもりが背中から伝わり気分が良くなる。
 目の前の信号が赤に変わり、停止すると彼女が後ろから俺を覗き込むように名前を呼んできた。

「ねぇねぇ仁王クン」
「なんじゃ、サン」
「なんでもなーい」

 次の信号で止まったときは俺が振り向き、彼女の名前を呼んだ。
「なぁなぁサン」
「なんですか、仁王クン」
「なんでもないナリ」
 彼女は満足そうに、腰に回している腕に力を込めた。
女子はなぜか無意味な会話が大好きだ。俺は別に好きじゃないが、嫌いでもないので、彼女が好きなように振る舞うことにしている。



 彼女がぴょんっと荷台から降りて、短いスカートの裾がふわりと浮いた。
「ウチ寄ってく?」
「帰りたくなくなるからやめとくナリ」
 そっかぁ、と呟いた彼女はセーターの袖からほんのすこしはみ出した指に、吐息をあてて温めていた。またマフラーが前にズレていたので、そっと肩にかけ直してやる。ついでのように前髪に唇を落とせば、彼女は嬉しそうにフフフと可愛く笑った。

「それ」
「ん?」
 まだ口元にかざされてる小さな手を至近距離で見つめながら、俺は先ほどのブン太と彼女のやりとりを思い出していた。
さっき言えなかったことも、彼女と二人っきりの今なら言える。

「ハンドクリーム、変えんしゃい」
「なんで? この匂い嫌い?」
 彼女は不思議そうに小首を傾げながら、ブン太にしたように手のひらを俺の顔面にぐいっと差し向けた。確かにブン太のいうとおりお菓子のような甘い匂いがする。好きか嫌いかで言うと、別にどっちでもない。

「もっとこう刺激臭みたいなんがええ」
「え、何その変わったご趣味」
「子豚が寄ってこんような匂いにしんしゃい。とにかく甘い匂いはこれから禁止じゃ」
「意味わかんない。……あ、もしかしてさっきブン太が私の匂い嗅いだの気にしてるの?」
「プリッ」
「ヤキモチだ」
 彼女がまたフフフと笑った。彼女は「さっき黙ってたのも本当はヤキモチかぁ」なんて言いながら俺の鼻先にあった手を頬に移動させてから、ちゅっとリップ音を鳴らして俺の鼻先に唇を落とした。

「仁王、可愛い」

 男の俺が可愛いなんて言われてもちっとも嬉しくないが、彼女が“可愛い”と言う表情が可愛いので嫌ではない。

「でもコレ開けたばっかだから当分なくなんないよ」
「新しいの買いんしゃい」
「えーもったいない……あ! そうだ、仁王、手、出して」
 言われるがまま手を出せば、彼女は例のハンドクリームをチューブから出して、俺の手に刷り込み始めた。
彼女の指が丹念に俺の手を片手ずつ撫で回す。その光景を彼女のつむじを見下ろしながら見届けた。

「はい、これで今日お風呂入るまで一緒の匂い」
「なら、今日は風呂入らん」
「汚い」
「ひどいナリ」
「二人で使えば早くなくなるでしょう。協力してください」
 豆だらけで硬い手には全く似合わない匂いが俺の手から漂う。多分、このまま帰ればこの匂いにしばらく無意味に翻弄されてしまうだろう。ならいっそのこと本人に翻弄してもらう方がいい。

「やっぱり部屋行ってもええかのう?」
「うん、私も今、このまま仁王のこと帰したくないなって思った」
 随分と男前なセリフを言う彼女に早くも翻弄されてる自分が可笑しくて笑えた。