時計の針が秒を刻む音が耳につくくらい今日の家庭科室は静かだった。みんなちゃんと集中している証だ。いつもこうだったらいいのにというのは本音はそっと自分の胸の奥にしまい、手にしていた刺繍針を針山に刺した。
 凝り固まった肩をほぐすために、ぐーっと上体を伸ばす。なんとなくいつもの癖で窓の外に目をやると丁度窓枠を何か固いもので叩く音がした。
 窓を開けて下を見れば案の定、予想通りの人物が顔を出す。

「何かご用ですか?」
「なんで家庭科部のくせに食いもん作ってねぇんだよ」
「家庭科部は君の食料製造工場ではありませーん」

 また部活を抜け出して来たのだろう。ラケットを片手にユニフォーム姿の彼は「とりあえず、なんか食いもんよこせ」と窓枠から、私に手を伸ばした。


◇◆◇


 額を強かに机に打ち付けた。予想以上の音と痛さが追い討ちように私を責める。

「何やってんだよ」
 何度かそれを繰り返していると前の席の赤髪の男が不審そうに振り返った。

「何でもない」
「お前、何でもないのに頭自分で打ち付けてるとか、何なの? 頭ヤバイの?」
「毎時間授業の合間に菓子パン食べてる丸いぞデぶん太くんは、お腹ヤバくないの?」
「脳みそ使うとエネルギー使うんだよ」
 さほど脳みそなんか使ってないくせに。アンタの成績が私の微っ妙な成績と大差ないこと知ってるんだから。ぶぁか。

 三年生になったばかりの四月の教室。まだ新しいクラスに浮き足立っているクラスメイトを余所に、独り絶望の淵に立ってやさぐれている私をくちゃくちゃガムを噛みながら見下すのは三年連続同じクラスの赤髪の男、丸井ブン太だ。
 彼がプーっと膨らませたガムが私の目の前でパチンッと弾ける。青りんごの甘酸っぱい匂いが飛散した。

「……家庭科部、廃部になるかも」
「は? なんで?」
「部員が少なくすぎて、今年新入部員が十人以上入ってこないと廃部って、さっき顧問の先生に言われちゃった……」

 家庭科部はこの男女平等のご時世、古臭いイメージを持たれてしまっているのか、年々部員数を減らしていた。別に女子限定の部活ではないと何度も公の場で言っているが、男子の入部は設立からわずか二名足らずとのこと。
 昨年の秋、三年生が引退したタイミングで私は部長になった。まぁ、当然だった。だってそのとき二年生は私を含めて二人だけ。二者択一。そしてそのもう一人の子はバドミント部と掛け持ちの子だった。私が部長になるのは至極自然な流れだった。

「廃部……やだなぁ……」

 思わず弱音が漏れる。
 どんなに時代遅れだと他人に思われようと私は家庭科部が好きだった。無から有を産む、なんて大それたことではないけれど、そこに存在しなかったものが自分の手によって形になるのが単純に楽しかった。作るのは芸術作品のような高尚なものではなくて、生活の延長線にあるような物ばかり。それらは難しい事を考えるのが苦手な私にも寄り添ってくれるような優しさを兼ね備えている。
 私はあのやけに時計の針の音が響く家庭科室で、黙々と作業することが学校生活において何より楽しみになっていたのに。

「明日の新入生部活紹介でアピールしたらいいじゃねぇの」
「……それはさ、もちろんするけどさ……」
 瞬時に去年の出来事が走馬灯のように私の脳裏を駆け巡る。
「そういえば去年、なんかすっげぇ仮装パーティーみたいな浮かれポンチな宣伝してたよな、お前ら」
 そう、忘れもしない去年の新入生部活紹介。私たち家庭科部は自分たちで一からデザインして、縫い上げたド派手な衣装を来てその会に臨んだ。ハロウィンとクリスマスとニューイヤーが一緒に来たようなそれを身につけ、恥をしのんで挑んだ大舞台。
 目立っていた。他のどの部活より確実に目立っていた。しかしそれは悪目立ちというやつだった。完全に引かれた私たち、家庭科部の入部部員数の結果は言わずもがな。そしてしばらくの間、「さん何か悩み事でもあるの?」とたくさんの人から心配されるという副産物まで生んだ。完全にブラックヒストリー。

「今年はアレもうやんねぇの?」
「やるわけないでしょ。ほんと、忘れて、お願い」
「あれ、俺めっちゃ好きだったんだけどなぁ。多分人生で一番笑ったわ」
「じゃあ、丸井、家庭科部に入部してよ!」
「いやいや、ウチの部、兼部認めてねぇから」
「じゃあテニス部やめれ」
「ぶぁか、無理に決まってんだろぃ」

 私は今日もう何度目かわからない衝撃を額に自分で喰らわす。
「……どうしよう」
 今まで一番クリンヒットして、鈍い痛みで声が震える。鼻の奥がスンっと鳴った。

「やる前から弱気になんなよ、らしくねぇじゃん」
「うるさい、このポルコ・ロッソ!」

 吐き捨てるように言って再び机に突っ伏した。
 しかし流石にポルコ・ロッソは、ない。ドンピシャだけど、ない。丸井はおそらく私を心配して声をかけてくれたのにこの言い方は良くなかったかもしれない。ごめんと素直に謝ろうと顔を上げると丸井は目を見開いて頭上に浮いた電球を光らせたところだった。

「俺いいこと思いついたぜ」
 ところでポルコ・ロッソって何? という質問は、最後までどうにか誤魔化して、彼の“いいこと”とやらを拝聴することにした。


◇◆◇


「俺、結構貢献しただろぃ?」
 申し訳ないが、本当にくれてやるものは何もない。しょうがなく、自分の制服のポケットを探れば小さなアメが出てきたので、彼にソレを手渡した。丸井はすぐさま口に入れて満足げだ。
「まぁ……うん、だいぶ」

 丸井の提案は至極簡単なものだった。
 まず、仮入部期間中、家庭科部のスケジュールを調理実習にすること。そして丸井が家庭科部によく出入りしているという噂を流すこと。たったこの二つ。何それ、どんだけ自意識過剰なんだと思ったけれど、万策尽きた私はすがる他なかった。ダメ元だ。何もしないよりは、そんな気持ちで彼の提案に乗った。
 しかし蓋を開けてみれば効果は覿面! 廃部寸前だったなんて嘘かのように放課後の家庭科室は瞬く間に女生徒で溢れかえったのである。改めて丸井の人気を再確認。本当すごい。何、君、アイドルなの? 私は突然増えた新入部員候補生たちに戸惑いつつも、これで自分の代で部活を潰さずに済むかもしれないと心の底から安堵した。
 ただ彼女たちを見て、少し複雑な気分になったことは、今は深く考えこまないことにした。

「俺のおかげで廃部寸前だった家庭部は部員増加で無事部は存続決定! そして俺は家庭部が作ったお菓子をタダでたんまりもらえる。これってアレじゃね?」
 丸井がラケットを置いて、両手でピースサインをつくり、立てた指を二回折り曲げた。
「ウィンウィン?」
「そう! それ! お互いハッピー!」
 丸井は仮入部期間、本当に家庭科室に顔を出してくれた。新入部員候補生たちは丸井が来ると我先に自分が作ったお菓子を渡そうと彼に群がる。いつもの静かな家庭科室とはうってかわって、アイドルが降り立った空港のように騒がしい。丸井は一通りそれらを回収し終わると「また今度もシクヨロ!」とウィンクをきめて去っていく。キャーと一際大きい歓声が上がり、私たち古参組はそれを拍手で見送った。

「その代わり、アンタが来ないってわかってる調理実習意外の日はこの通り閑古鳥が鳴いてるけどね」
 そう毎日、毎日、調理実習をするわけにもいかない。一週間の仮入部期間を終えて、本格的な部の活動を始めると同時に今まで通り、調理実習意外の日を設けたところ、見事なまでに部員がその日だけ来ないのである。いるのはやはり古参組とわずかな一年生のみ。
 あからさまにはぁっとため息をつけば、「そこまでは知らねえよ、自分でどうにかしろぃ」と突き放される。でも確かにそうだ。立て直すチャンスはもらった。このあと丸井にしか興味のないお嬢さん方に家庭科部の魅力をいかに伝えるかは私の仕事だ。

 しかし丸井はさっきウィンウィンなんて言ったけれど、実際私としては借りを作ったような気持ちの方が強かった。
 だって丸井がこの提案をしてくれて、なおかつ実行してくれたから、この成果なわけで。確かに丸井にとってもタダで大量に食料が手に入るのは嬉しいことだろう。でもただでさえ厳しいテニス部の合間を縫って律儀に彼が毎日家庭科室に通ってくれたことは、私にとってそんなくらいじゃ見合わないほどの大恩だった。

「わかったよ。来週はどうにかもっと調理実習ねじ込んでみる」
「よっしゃ! 頼んだぜぃ、部長サン」
 それくらい、大恩人の彼のためならどうにかしよう。やったぜぃ! とはしゃぐ彼を尻目に、今なら私にだって丸井がモテるの理由ががわかるとなと思った。

「ところで、今日は調理実習じゃないって知ってるのに何しに来たの?」
 予め家庭科部のスケジュール表は渡しておいたので、丸井はそのことを知っているはずだった。何かをねだりに来たところで、普段の家庭科室にはおおよそ調味料の類しかない。私のポケットにアメが入っていたのだって偶然だ。購買に行った方がはるかに確実に食料が得られるだろう。まさか砂糖でも舐めに来たんだろうかと訝しむ。

「お前の顔、見に来た」
 は? っと素っ頓狂な声が出た。
「部員いなくてしょげてんのかと思ったけど案外いい顔してやってんじゃん」
 何言ってんだ、コイツ。何それ。何それ、何それ、何それ。私が声も出せずに固まったままいると、グラウンドの方から黒色のオーラを纏わせながら丸井の名前を咆哮している同級生が近づいて来るのが見えた。

「ゲッ! ヤベ、見つかっちまった! もう戻んねぇと」
 慌てて壁に立てかけていたラケットを拾い、丸井が家庭科室に背を向ける。去り際に一度私に振り返り、「部活終わったら帰りどっかよろうぜぃ! 奢るってやるよ、ジャッカルが!」と言って駆けて行った。
 私はその背中を自分の心臓を抑えながら、必死に何気ない表情を装って見送った。

「この間一年生に『丸井先輩と先輩は付き合ってるんですかぁ?』って聞かれたわよ」
 ひっ!と声を上げ、私は数センチメートル飛び上がった。振り返ると、何の気配もなく後ろに立っていたのは唯一の古参同級生部員の友人だった。ニヤニヤと悪代官の手下のように笑う姿はとても楽しそうである。付き合ってなんかないし、っと小声で答えれば、その笑みはより一層深いものになった。

「さっきみたいに窓辺でお話ししている姿なんかまるで逢引きしているロミオとジュリエットみたいだったのになぁ」
 そんな馬鹿な話あるもんか。私と丸井はそんなんじゃない。全然、全く、そんな甘い関係では決して絶対間違いなく、ない。ただいちいちそんなことを言ったところで彼女の誤解をさらに裏付けてしまう気がしたので、黙って彼女に抗議の視線を送るに止めた。

「試合までに完成して渡せるといいわね、ジュリエット」
 そう言った彼女は私が先ほどまで使っていた机の上を指差した。ハッとして私は思わずその机に駆け寄り、作りかけのソレを素早く後ろ手に隠す。しかしよくよく考えてみれば、こんなあからさまな行動こそ失態だ。しまったと思い彼女を見れば、もう我慢できないとばかりに盛大に吹き出したところだった。

「イニシャルが『B』なんてそうそういないからバレバレだよ〜ん」そう言って彼女は自分の席に戻っていく。私はまだ『P』の状態で刺繍が止まってしまっているスポーツタオルを固く握り締めて、「これは、その……そんなんじゃなんて、ただのお礼で……」となんの説得力もない言葉を真っ赤な顔で次から次に口にする羽目になった。