醗酵と腐敗。学術的にそれらが同じことを示すとを知ったのは最近のことだ。名称の違いは結局のところそれを捉える側の問題らしい。
 私が瓶に入れて五年間、奥の奥の奥にしまいこんでいたこの気持ちがどちらを指すのか。
 結局、私はそれを知ることができなかった。


 普段バス通学をしていた私が通学路であるこの坂道をそれ以外の手段で通ったのはただの一度きりである。
 忘れもしない。中一の三学期。その日は期末テスト一日目。
 私は人生で初めての寝坊をした。よりによってテスト当日にだ。しかも一時間目の教科は憎っくき数学。主要五教科の中で唯一、小学校の頃の教科名と異なったそれは、その名称とともに難易度も桁違いに跳ね上がったように感じられた。
 一学期、二学期ともに芳しくない成績をとってしまった私にとって、今日のテストは生死(進級)を懸けた最後の大勝負。だから昨夜、ギリギリまで勉強をしていたんだ。しかしそのことが仇となって今、私にふりかかる。
 バス停に着くともうそこには他の生徒の姿はなかった。慌ててバスの時刻表を確認すると、すでにテスト開始時刻に間に合うバスは全て出発した後だった。
 血の気が引く。冷たくなった頭は思考を完全に停止させ、私はただただそこにつ立ち尽くしてしまっていた。

「おい」
 そんな風につったっていると後ろから知った声が聞こえた。
「おい!」
 もう一度大きく怒ったように声をかけてきたのはクラスメイトの宍戸亮であった。

「お前、何してんだよ。遅刻するぜ」
「バ、バスが……」
 途方にくれていた私は蚊が鳴くような声で答えた。
「後ろ、乗れよ!」
 そう言って宍戸は自分が乗っている自転車の背後を親指で指し示す。
 私はコンクリートに根を張っていた自分の足を地面から急いで引っこ抜き、彼の申し出に飛びついた。

「宍戸が遅刻なんて珍しいね」
 彼は毎朝愛犬の散歩をこなしてから、テニス部の朝練(ない日は自主練)に励むらしい。そんな彼が授業しかも定期テストに遅刻するなんて妙な話である。
 自転車を漕ぐ彼の背にしがみつきながら尋ねた。
「途中で具合の悪そうな腹の大きい人に会って、救急車呼んでたらこんな時間になっちっまたんだよ」
 彼があまりにも堂々と遅刻の言い訳テンプレートを語るものだから驚いた。けれど、実直な彼のことだ。おそらく本当のことなんだろう。宍戸亮とはそういう男なのであることを私はその日改めて認識した。
 坂に差し掛かり、一旦自転車から降りて二人とも走る。坂を登り切ればそこは正門だ。教室まではあと少し。

 私たちは結局その日のテストに間に合った。息を切らして、汗だくで、挑んだテスト。しかし私の結果は見事赤点。まぁそれはまた別の話である。(ちなみにどうにかお情けで留年は免れた)


 これが私が唯一、この坂道をバス以外の手段で登った思い出である。
 ここに通った六年間、後にも先にもただのこの一度きり。だから私にとってこの道を自分で歩くことは、イコールあのときの思い出、宍戸亮につながっている。
 バスに乗っているとガラス越しに一瞬で過ぎ去ってしまう景色を今日はゆっくり脳みそのシワに刻み込む。私はあの時の記憶に上書き保存するかのように、一歩一歩踏みしめて学校へ向かった。
 緩やかな坂を登る。過去を思い出しながら、そして消し去りながら。


 本当はちゃんと瓶の蓋を開ける予定だったんだ。しかしその予定日だった高等部の卒業式の当日、私は風邪を引いて休んだ。まさかである。
 六年間通った集大成がこれかと思うと自分のある種の間のあるさに辟易する。
 これが答えだ。蓋を開けるまでもない。そう神様に言われてるような気がした。
 卒業式から三日が経ち、私の風邪のウイルスはようやっと体外に排出されたようである。こうして私は卒業証書やアルバムを受け取るためだけに一人寂しく登校する羽目になったのである。
 もう学校は春休み。担任に今日行くことを電話で伝えてから、遅めの朝食を家で済ませ、ゆっくり学校へ向かった。バスに乗らずに徒歩で行くことは今朝決めた。
 昇降口で靴を内履きに履き替る。帰りにこれも持って帰ることを忘れないようにしなければと思いながら、職員室へ足を運んだ。


 担任に間の悪さを一通りからかわれ、最後に元気でなと背中を押されて送り出された。所要時間約五分。たったこれだけのためにここまで来たかと思うとどっと疲れを感じた。
 帰りはもう大人しくバスで帰ろう。内履きをローファーに履き替えて、校舎を出る。春休みといえど部活は行われているようで、吹奏楽部の楽器の音色が窓の隙間から漏れ聴こえた。たまたまここから見えるグランドに目を向ければ野球部とサッカー部が半分ずつそこを使用しているところだった。おそらくテニス部も、奥の専用コートで練習しているに違いない。けれどそこにはもういないであろう彼を最後にもう一度だけ思い出した。

 バス停に着き、時刻表を確認する。
 しかし、そこには通常の時刻表の上を覆うように張り紙がなされ「ただいま春休みにつき縮小運行中」と記されているだけだった。
 しまった。私は在学中部活動をしていなかったので、長期休みに学校へ訪れた経験はほとんどない。バスがこの期間、縮小運営することを聞いたことはあったが、すっかり忘れていた。
 次のバスは一体いつ来るのだろうか。もう歩いた方がいいのかもしれない。
 地味に重い荷物を抱え、途方にくれていると突然後ろから名前を呼ばれた。



 振り返るとそこにいたのはあの時と同じように自転車を押した宍戸亮、彼だった。
「え! なんで? なんでここにいるの?」
 驚いたと同時に胸がきゅうんと苦しくなる。
 なんで。なんで、今現れるんだ。やっと自分の気持ちに整理をつけようとしていたところだったのに。

「さっきまで、部活の後輩指導。卒業してもテニス以外やることねぇしな。お前こそどうしたんだよ」
「卒アルとか証書とりにきた」
「ふーん。つか、バスこの時間帯はたぶんしばらく来ねぇぜ」
「え、マジで」
「マジで」
 間の悪さをここでも存分に発揮する私。ここまでくれば立派なものである。
 はぁ、と大きくため息をついてうな垂れた。

「後ろ、乗れよ」

 重たい頭を持ち上げて彼を見れば、親指で自分の背後を指しているところだった。
 五年前の出来事と全く同じだ。ただ違うのは宍戸の髪の長さと、私の気持ちだけ。あのときの私はまだ彼のことをこんな風には思ってはいなかった。
 諦めるつもりだった。五年間、大事に瓶にしまって、そして最後に開きかけた蓋。けれどそれは結局タイミングを失ってしまった。そういう運命なんだと思った。だから忘れるためにこの坂道を今日、一人で登りきったというのに。

「そんなとこ長いことつったってると風邪ぶり返すぜ」

 私の決意はいとも簡単に崩れた。あったことをなかったことにしようなんて、出気ないと思い知らされる。

「そういえば、お前と二ケツすんの二回目だな」
 記憶の角を引っ掻くように彼が言った。
 神様が私にもう一度、蓋を開けるチャンスをくれたような気がした。

「宍戸、あのね、私ね——」

 それは醗酵か腐敗か。はたまたそれ以外か。
 私はようやくその答えを導きだす。