「お前、へったクソだな」

 目の前の彼がククっと喉の奥で笑った。

「しょうがないじゃない。お祖父様が洋食お嫌いだから、あんまり食べ慣れてないのよ」

 自分だってうどんやそばをすすれないくせにと反論したかったが、彼のプライドを変に刺激しても後々面倒なので、やめておいた。
私はフォークを再び皿の中央へ刺し、クルクルと回す。麺が絡みつき巻き終わる頃には、どうも一口で食べられる適量を超えてしまっていた。これは頑張って頬張るべきか、もう一度巻き直すべきか……。うーん……。

「お前なぁ、なんで皿の真ん中で巻くんだよ。皿の手前で少しずつ巻けばそんなことになんねぇんだよ」
「そうなの?」
「オラ、よく見ておけ」

 そう言って彼が自分の皿のパスタを食す。その所作に無駄なところなんて一つもなくて、まさに美技。凄いな、パスタをこんなに不必要なまでに優雅に食べられる人間、そうそういないんじゃないかな。ふふんっと最後の自慢げな表情がこれまたキングである。いとおかし。

「今日の夜のパーティー楽しみね」

 彼を見習い、早速フォークの歯で三、四本パスタを取り、皿の手前の余白で巻きつける。なるほど、確かにいい感じ。
「……本当にいいのか?」

適量にまとまったそれを口に運んだ。咀嚼をしながら目の前に座る彼をじっと見つめる。その間、彼も何も言わずただじっと私を見つめ返した。

「何が?」

 ごくりっと全て飲み込んでから私はそう言う。

「今日のパーティーで正式に俺たちのことが発表される。そうしたら、もう後には戻れないぜ」

 今夜、彼の誕生日パーティーが開催されることになっている。きっといつも以上に大々的なものになるだろう。そこで私たちは正式に婚約発表をする予定なのだ。

、どうするかは自分で決めろ」


◇◆◇


 彼との婚約が内々で決まったのは私たちがまだ十五歳、中学三年生のときだった。お互いまだ顔も合わせたこともないのに、その話を私が知る頃には既に顔合わせの日取りが決まっていた。私に選択権ないし拒否権はない。小さい頃からこうなることは決まっていたので、抵抗心は元から皆無だった。
 相手が誰だって私を待っているのは変わらない未来だ。私の役割は伴侶となる相手に三歩下がってついていく振りをすること。相手だって私にそれ以上を求めてくるとは思えない。美しいだけの箱庭で鳥や花でも愛でながら一生を過ごす。それが私に与えられた将来だ。

 この日の為に用意してもらった最高級の京友禅は珍しい桔梗色だった。雲取りで描かれた四季折々の小花が瑞々しく、金の箔でより一層華やかさを増したそれは確かに美しかった。着付けを終えた後、姿見で自分をぼんやり見つめた。確かに見立て通り似合っている。けれど、好きじゃない。私はもっとはっきりした色調の物が好きだし、柄は大ぶりな方が好みだ。
 帯で締めらげられた胸と腹が苦しい。はぁ、っとため息を一度だけつき、顔わせ場所に向かう車に乗り込んだ。

 着いたそこはお祖父様ご贔屓の料亭だった。奥の座敷に通され、しばし待つ。程なくして現れたのは日本人離れした顔立ちの青年だった。同じ十五歳と聞いていたのに、嘘だったのだろうかと思うほど大人びていたが、どうやら間違いなく十五歳らしい。
簡単な自己紹介と共に彼が礼儀正しくお辞儀をした。私も立ち上がり、頭を下げる。よく見ると彼の瞳は青かった。美しいと思ったけれど、ただそれだけだった。

 目の前の人物が未来の自分の伴侶だというのに、私は全く興味が持てなかった。交わされる大人たちの会話に合わせて笑みを貼り付け、ただただずっと座っていた。料理は誰もあまり手をつけることなく下げられては、再び新たな物が運ばれてくる。勿体無いな、と思いながら私も結局ほとんど食べられなかった。
会は恙無く終わった。そして彼と私はその日、お互いほとんど言葉を交わすことなく別れた。

 しかしその翌日、私が通っている女子校に彼が突然リムジンで迎えに現れた。どこへ向かうとも告げられず発進した車内は沈黙が続く。流石に少し不安になって行き先を訊ねようとしたときに丁度車が止まった。
行く着いた先は老舗の呉服屋だった。

「えっと……これは、どういうことですか?」

 何の説明もなしにこんなところに連れてこられて、彼の真意が全くわからない。伺うように彼を見れば、冷たい青い瞳で一睨みされる。

「好きな物を選べ」
「ハイ?」
「この中に気に入った物がなければ、別の店へ行ってもいい」
「どういうこと? 本当に意味がわからないんだけれど」

 彼が私の顎を乱暴に持ち上げた。至近距離で視線がぶつかる。

「お前、自分が着る物も自分で選べねぇのか」

 馬鹿にされている。それだけはわかった。カッと頭に血が上り、彼を手を払いのけて睨み返した。そんな私たちを見かねた店員が「とりあえずこちらへ」と奥へと案内してくれた。


「こちらなんかお客様によくお似合いになると思いますよ」

 そう言って次から次へと着物を持ってこられる。彼はその様子を後ろで椅子に座りながら鋭く監視していた。

「あの……あちらを見せていただけますか?」

 このままでは永遠に解放されないと思い、私は奥に飾られていた着物を指差した。朱色地に大輪の牡丹の花が咲いた艶やかな柄。あの日着た桔梗色の着物とは正反対の印象だ。
鏡の前で簡単に合わせる。確かに桔梗色の着物の方が似合っていたかもしれないが、私はこちらの着物の方が好きだ。自然と顔に笑みが漏れた。
 次はそれに合わせて帯や小物を一式選ぶ。鏡の前であれこれ試しながら吟味を重ねる。こんな風にたくさんの物から自分で選ぶのは初めてだった。なんだか初めの苛立ちはとうに消え去り、鏡の中の私は明らかにはしゃいでいた。
全てが選び終わり、帰り仕度を終えた頃には全ての支払いが終わっていた。

 帰りの車内も私たちは無言だった。お互い頬杖をついて流れる景色を見ていた。
日が完全に落ちる前、車が私の家の前に着いた。運転手がドアを開けてくれる。私に続いて、彼も車から降りた。

「ねぇ」
「アーン? 心配するな。今日のことはお前の家にきちんと説明してある」

 本来なら学校帰りに寄り道など言語道断。連絡なしにこんな時間に帰宅すればお祖父様はお怒りになるだろう。けれど今はそんなことを気にしているんじゃない。

「違う。そんなことどうでもいいの。なんでこんなことしたの?」
「自分で考えろ」

 そう言って彼は私の額を指で弾いた。結構痛い。こんな扱い始めてされた。
額を手で押さえて睨み返せば、彼は愉快そうに笑っていた。それが無性に癇に障ったので、持っていた学生鞄で彼の腰を思いっきり殴る。反撃にあったらたまったもんじゃないので、走って自宅の門をくぐった。流石に中までは追ってこないだろう。ぴょこりと顔だけ門から出せば、彼は車に乗り込むところだった。

 私の視線に気づき、彼が振り返える。彼の口が音を発さず動いた。

〈バアカ〉

 そう言って彼は笑っていた。


 私は彼に俄然興味が湧き、高校は彼と同じ氷帝学園に進学した。
そして彼の側で過ごした予定調和ではない慌ただしい三年間。喜んだり、怒ったり、泣いたり、笑ったり、自分にこんなにも感情の引き出しがあったことに驚いた。こんな未来思ってもみなかった。
 彼は私が後ろにつくことを許さない。いつだって私の手をとり、自分の横まで引き上げる。そして自分が見ているものと同じ広い景色を私にも見せてくれる。彼は私に十分な選択肢を与えて、最後には必ず自分で決めろと突き放すのだ。

 だから私は随分変わった。何も選ばない無関心な私はもう何処にもいない。そのことを誇らしく思えることもまた誇らしかった。


◇◆◇


「私のこと幸せにする自信なくなっちゃったの?」
「んなわけねぇだろ。お前が俺を選ぶんだったら、お前は世界一、いや宇宙一幸せな女になれるぜ」

 手にしていたフォークを一旦置き、彼を正面から見つめ直す。
私は私の未来を自分で選べるんだ。そんな当たり前のことを当たり前だと教えてくれたのは彼だ。彼の隣は平穏無事ではないけれど、きっとそれ以上の価値が有る。私の手を握ってくれる手は温かく、私を見つめてくれる瞳は優しい。そんなことに気付いて、心の底が縮こまるようにきゅんとなったのはいつ頃からだっただろう。きっとすでに私は宇宙一幸せな女だ。
 
「景吾、十八歳の誕生日おめでとう。私が世界一幸せな男にしてあげる」
「ハッ! 上等じゃねぇの」

 私はこの日をずっと待っていた。私は貴方を選ぶ。景吾、生まれてきてくれてありがとう。