「幸村くん!」
 真田たちと廊下を歩いていると突然知らない女子に後ろから名前を呼ばれた。
「ちょ、! ほんとにやめなよ!」
「いいの! ほっておいて!」
 彼女は自分を必死に引きとめようとする友人の腕を引き剥がし、俺の方に向かってきた。その後ろで「もう知らないからね! の馬鹿!」と言って彼女の友人は俺たちのいるところとは逆の方へ去っていってしまった。
「あのね、幸村くんに話したいことがあるんだけど、ちょっといいかな?」
 彼女の緊張した表情からこれから起こるであろうことを察する。蓮二に目配せをして、事態をあまりよく理解していない真田を連れて先に行ってもらう。
「いいよ。ここじゃなんだから、少し向こうへ行こうか」
 こくりと彼女が頷くのを確認して、人気のなさそうなところまで連れていく。階段を数階分下り、運動部の部室棟の前まで来た。昼休み、ここに生徒が来ることはほぼない。これで彼女もいくらか落ち着いて話すことができるだろう。


「えっと……、あの、その、私のこと知らないよね? 私、B組のって言います」
 向き合った彼女は、まずしどろもどろに自己紹介をした。ご丁寧に頭まで下げるものだから、俺もそれに合わせて軽く頭を下げた。俺が頭を上げても彼女はまだ頭を上げていなかった。手を胸の前で組み、押し黙っている。彼女の緊張が俺にまでひしひしと伝わってくる。こういうことは今までに何度かあったけれど、この子は重症の部類だった。
「あ、あのね」
 上擦った声が二人の間の宙をさまよう。強い風が吹けば消し飛びそうなほど小さく身体を縮こめている彼女があまりにも可哀想になり出来るだけ優しく声をかける。
「大丈夫、ゆっくりでいいよ」
 そう言えば、彼女はひとまず安心したように浅く息を吐き出した。
「私、中学はね、普通の地元の公立で立海じゃなかったの。それでね、中学生のときたまたま友達の応援で行ったテニス の試合会場で幸村くんの試合を見て、私、それ以来ファンになっちゃって……」
「ありがとう」と答えれば、彼女は顔をようやく上げて俺を見て、えへへっと恥ずかしそうに笑った。
「だから親に無理言って私立受験させてもらって、高校から立海に入ったの。本当は入ってからすぐに声かけたかったんだけど、幸村くんはスゴイから私なんか相手にしてくれないよなって怖気付いちゃって……」
「そんなことないんだけどな」と漏らすと彼女は首を勢いよく横に何度か振って「そんなことあるの」と言って再び俯いてしまった。
「でもね、やっぱりこのまま卒業しちゃうのは、どうしても堪えられなくて……」
 意を決したように彼女がパッと顔を上げた。俺も次投げられるであろう言葉に身構える。
「だから……」
 ゴクリと鳴ったのは俺の喉だった。何度経験してもこの瞬間は得意じゃない。こんなに頑張ってくれているのに応えてあげられないから、胸が痛む。向けられた眼差しがなんとも直向きで、それを助長する。彼女が口を開くのがスローモーションで見えた。
「だから、私と試合してください!」
「ごめんね……って、えっ?」
「え?」
「え?試合?」
「うん、テニスのね、試合を私としてほしかったんだけど……やっぱりダメだよね?」
 彼女が申し訳なさそうに俺を見上げた。俺はまだ事態よく掴めていなくて、そんな彼女を何度も瞬きを繰り返しながら見つめ返した。
「私、幸村くんに憧れてテニス始めたの。結局レギュラーにはなれなかったけど、でも折角ちょっとは出来るようになったし、高校最後に憧れの幸村くんと打てたらなって……って、どうかした?」
 俺が笑い出してしまって、彼女は不思議そうな顔をする。告白かと思っていたなんて自惚れにもほどがあった。けれど、彼女の様子はまさにそれで、勘違いするなと言う方が無理があっただろう。いや、しかし、なんとも……
「いや、うん、なんでもないんだ。そういうことか。テニスの試合かい? いいよ」
「本当!」
 彼女が顔がパッと明るくなる。どうも彼女の感情表現は他人に影響を及ぼしやすいようだ。なんだか、つられて俺まで嬉しい気持ちになるような笑顔だ。
「本当。俺はいつでも構わないよ。なんなら今日の放課後でも」
「嬉しい! 本当にありがとう。じゃあ、えっと、場所は……」
「近くのスクールに行こうか。俺がよく自主練で使っているところがあるんだ。学校じゃあ部活してるし、ギャラリーが多いだろうからさ」
「じゃあそこで!」
「了解。じゃあ、授業が終わったら正門のところで待ってるよ」
「うん!」
 それじゃあ! と言って、駆けていく彼女の背中を見ながら、俺はまた少し笑った。
 

◇◆◇


「俺のプレイスタイルは知ってるんだよね?もし、怖くなったすぐにーー」
 スクールについて、コートを予約して準備を始める。お互い簡単なアップをしてから、コートに立った。
「ちゃんと知ってるよ。でも試合は、途中やめないでほしい。それから、できれば手加減もしないで。幸村くんからしたら私相手にそんなこと難しいかもしれないけど、できるだけ本気で相手してほしい」
 彼女が真剣だということはその表情でわかる。その思いに応えてあげたい。「うん。わかった」と首を縦に振れば、「ありがとう」と笑顔が返ってきた。


「あー負けちゃったぁ!」
 彼女はコートに仰向けに倒れこんだ。俺は腕にしていたリストバンドで自分の額の汗を拭う。
 彼女との試合は思いの外、充実した内容だった。彼女は技術こそ荒削りな物のサーブ、リターン、ストローク、ボレーの組み合わせが絶妙だった。眼がいいのかもしれない。相手の打球をよく見て、きっちりと返してくる。俺に真っ向勝負を挑んでくるあたり、彼女のプレイスタイルは少し真田に似ている気がした。なんて言ったら彼女は怒るだろうか。
「大丈夫かい?」
 まだ倒れこんでいた彼女に向かって手を差し伸べた。彼女は俺の手を掴んで上半身だけを起こす。まだ肩で息をしている彼女にタオルを手渡してあげた。
「本当に聞こえなくなったりするんだね。びっくりしちゃった」
 彼女は俺からタオルを受け取り「ありがとう」と言って、そのタオルに顔を埋めた。
「ごめんね」
 イップスは自分ではコントロール出来ない。彼女に対して、できれば発動しないで欲しかったがやはり無理だったようだ。申し訳ない気持ちでそう謝れば、彼女は首を横に振った。
「幸村くん」
「なんだい?」
「やっぱりテニスって楽しいね!」
 彼女が今日一番、とびきりの笑顔でそう言った。なんだか聞き覚えのあるセリフが俺の古傷に触れる。彼女が心からテニスを楽しんでいるのがすごく伝わってくる。眩しい、羨ましいな。俺は結局、そんな風にはなれなかった。そう考えるとなんだかとたんに彼女が果てしなく遠い存在のように思えた。


 気がつけば、コートの使用時間が過ぎてしまっていた。声をかけてきた係員に謝って、慌てて帰り支度をして、二人でスクールを出る。日はだいぶ傾き、長い影をつくっていた。
「あ、私、ここからだと地下鉄の方が早いや」と彼女が自分のスマートフォンとにらめっこしていた。
「幸村くんはJR?」
「うん」
「じゃあ、ここでお別れだね」
 彼女が地面に置いていたラケットバックを肩にかけ直し、スマートフォンを制服のポケットにしまう。
「今日はありがとうございました。一生の思い出になっちゃった」
「こちらこそ」
 そう言っておきながら、こちらこそなんなのだと自分で不思議に思う。楽しかった? 面白かった? なんだろう。こちらこそに続く言葉が自分でもよくわからない。そんな俺を気にとめることなく、彼女は「バイバァイ」と大きく手を振って去ろうとする。
 きっと明日からはまた俺と彼女はただの同級生に戻るんだろう。廊下ですれ違ったら挨拶くらいは交わすかな。そしてそのまま卒業して、偶然会うようなこともなくなって、そして今日あったこともいつの間にか忘れてしまうのかな。
 そう思ったら勝手に身体が動いた。地下鉄の改札へ向かう階段を下りかけている彼女の腕を掴む。
さん!」
「幸村くん? どうしたの?」
 彼女は驚いて、俺を見上げている。どうしたの? 俺も自分にそう聞きたい。どうしたんだろう、俺は。どうしたいんだろう、俺は。
「……もしさ、さんさえ良かったらまた俺と打ってくれないかな?」
 このまま彼女と次の約束もなく別れるのは、とてつもなく不安で不幸で不適切な気がした。
「それ本気? 社交辞令じゃない? 私、本気にしちゃうよ?」
「うん。本気だよ」
「すっごく嬉しい」と言って笑った彼女を可愛いなと思った。


◇◆◇


「あ! おはよう、幸村くん」
「おはよう、さん」
 昨日の今日で偶然会うなんて凄いな。何百人も行き交う朝の昇降口で、彼女に会えたのは奇跡に近い。決まり切った朝の挨拶だけをして、彼女は俺に背を向ける。その背を俺はただ黙って眼で追った。
「どうした? 精市?」
 彼女の後ろ姿がだいぶ遠のいた頃、蓮二に声をかけられる。隣にいた真田も不思議そうな顔をしていた。
「お前がぼうっとするなんて珍しいな」
「そうかな」
「何かあったのか?」
 しばし思案する。何かならあった。告白されるのかと誤解して、自惚れて、勘違いとわかり笑って、それからその子とテニスの試合をして、そしてーー
 俺は今更重大なことに気づいた。自分のことなのに今まで何故気づかなかったのだろう。

「俺さ、真田とか越前ぼうやみたいなのがタイプみたい」
「は?」
 蓮二と真田が二人揃って奇妙な声を上げた。