「白石先輩、卒業しないで!」
卒業式が終わり、部室で毎年恒例の追い出し会があった。飲め(お酒ではなくもちろんジュース)や歌えやのどんちゃん騒ぎ。
 一通りはしゃいで、最後は白石先輩の挨拶で、その宴は幕を閉じた。
 在校生の拍手で見送られて、順番に部室から出て行く先輩たち。私はたまらずその背中をすぐに追いかける。
 そして一番後ろを歩いていた白石先輩にしがみつき、泣きわめいた。
 他の先輩が普通の制服姿の中、白石先輩だけ何故かジャージ姿なのは、学ランやワイシャツのボタンというボタンを全て引きちぎられたかららしい。しかもズボンのベルトまでふんだくられたというのだから、さすがだ。ワオ。
「お願い!白石先輩!留年してください!一年だけでええから!お願い!」
 無茶苦茶なお願いに苦笑しながら、白石先輩は私の頭を優しく撫でてくれる。
 その横で謙也先輩が「なんや、、そんなに寂しいんか?俺も残ったろか?」と嬉々として聞いてくるので、「謙也先輩はどっちでもええです」と答えた。すかさず「おい!」と鋭いツッコミが入る。
 そんな私たちを遠くの方で見ていた財前が「阿呆らし」とつぶやき、早々に部室へ戻っていくのを白石先輩の体越しに見た。


◇◆◇


白石先輩にそんなことを言ったのは、何も白石先輩のことが好きだったからではない。数週間後の、数ヶ月後の、この状況が容易に想像できたからだ。
 全学年の女子(+女子みたいな男子)の視線を独占していた白石先輩がいなくなれば、彼女らは新しいお熱の対象を探すであろう。その第一候補が、テニス部新部長・財前光になることはどう考えても妥当だった。
 そして今、その予想通り、部活の休憩時間をいいことに大勢の女子が彼を取り囲んでいる。いつもの彼なら冷たい視線で彼女らを適当にあしらいそうだが、数が数だけにさすがにどうにもできないらしい。
 クソ、なんなら私が今すぐにでも野球部からバットを借りてきて、蹴散らしてあげようか。

「財前クーン」
「ざいぜーん」
「財前セーンパイ」
「光クーン」

 誰や!今、光クンなんて呼んだのは!ほんまにバット借りてこよか!
「なぁ、、どないしてん?そんな怖い顔して」
 金ちゃんがボール籠を持ったまま立ち止まっていた私のジャージの裾を引いた。
「腹でも痛いん?大丈夫か?」
 金ちゃんに心配そうな顔で見つめられる。
 そういえば金ちゃん、目線がだいぶ高くなったなと、改めて思った。ちょっと前まで、私より小さかった彼は今、成長期真っ只中らしい。どんどん筍のように伸びる様はすごいを通りこして恐ろしいものを感じほどだ。そのうち千歳先輩のようになったらどうしよう。……まぁ、いいか。
「大丈夫やで、金ちゃん。ボールしまってくるな」
 金ちゃんにそう笑顔で答えてから、重たいボール籠を持ち直す。きゃあきゃあと聞こえる声に背を向けて、歩き出そうとしたときに今日一番の黄色い悲鳴が聞こえた。
 何やねん!と思い、振り返ると私服姿の白石先輩と謙也先輩がビニル袋を抱えてこちらへ向かってくるところだった。
「差し入れしにきたでー」そう言って手を振る彼らに、私も今日一番の悲鳴をあげて、駆け寄った。



「白石先輩はハーメルンの笛吹男みたいやなぁ」
 今日の部活が無事終わり、部室にはもうマネージャーの私と部長の財前しか残っていない。
 たった今までここにいた白石先輩たちがギャラリーの女子を引き連れて帰っていくのが窓越しに見えた。
「お前は行かなくていいん?」
 財前はスマホ片手に長机に脚を上げて座っていた。
「……私は、もう随分前から特別な笛の音しか聞こえんようになってん」
「ふーん」
 ふーんって……。まぁ、いいか。
 私は部誌を書いていた手を再び動かし始める。
 ゆっくり、ゆっくり、ひとつひとつ丁寧に。本当はこんなの五分で書けるけど、少しでもこの時間が長く続くように私はできるかぎり時間をかけて部誌を書く。この不自然な時間に財前は特に文句を言うこともなく、だいたい隣の長机でスマホでゲームをしたり、音楽を聴いたりしているようだった。だから私はいつもそれに甘えている。
 財前が部長兼鍵係になってから、こうやって二人っきりになれる時間が増えた。財前は私のことどう思っているんだろうか。おそらく(というか、ほぼ間違いなく)、私が好きなことはバレているはずだ。
 それでも突き放すことはなく、けれど抱き寄せることもない彼の真意は私にはわからない。


「あぁ……明後日も白石先輩来てくれへんかなぁ」
「なんぼ先輩らでも平日には来おへんやろ」
 財前が鍵を返して、私が部誌をオサムちゃんに提出した後、いつも通り校門を二人でくぐった。坂を下り、賑わう商店街を進む。財前がいつもの肉屋でコロッケを買い食いした。夕食前のこんな時間にそんなのものよく食べられるな、と思う癖に、彼が食べてるのを見るとそのコロッケが世界一美味しそうに見えくるもんだから、ついつい私もつられて買ってしまう。
「お前、こないだダイエットするとか言うてへんかった?」
 と財前がニヤニヤしながら私に聞いてくる。
 クソ、腹立つな、その顔。にしても、なんでそんな些細な私の言動を覚えてるんだ。私はなんだか複雑な気分になり、そのやりきれない気持ちを拳に込めて財前におみまいする。が、ヒラリとかわされる。ちくしょう。
「……アンタ、最近ちょっとモテるからって、いい気になってへん?」
「阿呆か。俺かて辟易してんねん」
「せやったら、いつも見たく愛想悪くして、自分で蹴散らしたらええやん」
「まぁな、でも、どっかの誰かさんが般若みたいな顔して見てるんがおもろくてな」
 やっぱり、彼は気づいていた。
 しかもそれを楽しんでいたのだ。あのとき野球部からバットを借りてくるべきだったと後悔する。しかし殴りたいのあのきゃあきゃあうるさい雌猫たちではない。目の前のこいつだ。
「せやけど、それもそろそろ飽きてきたとこやしな」
 そう彼が言った後、数十メートル先で踏切が警報を鳴らし始める。ここは一度閉まると中々開かないから、渡ってしまいたい。二人とも走り出したが、待ち合わなかった。
 いや、正確には財前は間に合ったが、私は間に合わなかった。黄色と黒のシマシマの棒がすんでのとこで、頭上に降ってきてしまった。振り向いた財前に睨まれ、二人揃って遮断機の手前まで戻った。
「……さっきの話やけど」
「ウン?」
 警報音が鳴り続いているので、彼の声がなかなか聞き取りずらい。
「そろそろほんまにどうにかしよう思ってん」
「ウン?」
「知らん女にベタベタされんの面倒いし」
「ウン」
「部長にこれ以上美味しい思いさせるのもおもんないし」
「ウン、ん?何て?」
 警報音はずっとうるさく鳴りっぱなしなのに、財前の声はどんどん小さくなるので、最後の方はほとんど私の耳には聞こえず、たまらず聞き返す。
さっきまで前を向いていた財前が、無言のまま隣の私を見下ろした。

「手っ取り早く止めさせる方法はあるけどな」
 財前が少し身体を私の方に傾けて、ちゃんと聞こえるように耳元で話す。財前の身体からは、制汗剤独特の匂いがした。そんなことくらいにドキリとした自分に気づかれないように、必死に下を向いて唇を噛んで誤魔化す。
「何それ」
「何や思う?」
「……白石部長が戻ってくる?」
「それ、全然手っ取り早くないやろ」
「じゃあ何。わからん」
「俺が特定の相手作ったら、なんぼあいつらでもちょっとは収まるんちゃう」
「え」
 警報音が鳴り止み、遮断機が開いた。
 立ち止まっている私たちを残して、周りの人たちが足早に踏切を渡って行く。

「お前、俺の笛の音やったら聞こえるやんな?」
 そう言って不敵に笑って、右手を私に差し出す彼はきっと今、私にしか聞こえない笛を吹いた。