彼女から借りた辞書にメモを挟んで返して一週間が経った。
彼女からの反応は何もない。
おそらくフラれたんだと思う。


謙也サンに用事があって、新学期早々に三年の教室へ行った。
謙也サンと部長はクラスの端の方で二人で話していたから、教室に入って声をかける。
しばらく彼らと一緒に話しているうちに、なんとなく視線を感じてクラスを見渡せば、バッと顔を次々に逸らされた。みんな女子である。
(なんやコレ?)
「どないしたん?財前」
「先輩ら気にならんのですか?」
「何が?」
二人揃って小首を傾げた。その姿に少々イラっとする。
「いや、このクラスの雰囲気とか…」
「?ええクラスやで?なぁ、謙也?」
「おん!おもろい奴、多いしなぁ!」
「…まぁ、先輩らが気にならないんやったらどうでもええですわ」
彼らは神経が鈍ってるんだか、もとより寛容な性格なんだか知らないが全く気にしていないらしい。
しかし俺には到底無理だ。
甘ったるい空気が充満しているこんなところによく平気でいられるなと思う。
甘い甘い絡みつくような視線は今にも可視化できそうなほど色づいてるものもある。
冷たい目で教室を見渡していると、一人の背中に目が止まった。
ガヤガヤそわそわダラダラ騒めいてる休み時間の教室で、ピンと背筋を伸ばして本を読んでいる女子。
彼女の周りだけ無色透明な空気に包まれていた。
周りの空気に混ざらないその硬質で清涼な姿は、この教室ではとても異質に見える。
けれど決して嫌な感じはしなかった。彼女は異質だけれど異物ではなかった。

俺は謙也サンたちのクラスに頻繁に行くようになった。
CDや漫画の貸し借りとか、なんとか適当な理由を作ってわざわざ三年の教室まで通う。
話すのは謙也サンと部長とだけ。
けれど必ず教室を出るときに彼女のことをチラリと一度だけ見る。
相変わらず一人だけ涼やかな空気をまとい座っていた。
彼女が読んでいた本からスっと顔を上げ、俺を見る。
彼女の視線も彼女同様やはり無色透明で温度もない。しかしその視線の先は今、間違いなく俺の心を刺した。
彼女は何事もなかったかのようにまたすぐに本に視線を戻す。俺もそれを合図に教室を去る。
その日から教室を出るときは必ず彼女と俺は目を合わせることが約束のようになった。
ただそれだけ。
何も言葉を交わしたことはない。
けれど、その視線は少しずつ甘やかになりつつあった。


そんな彼女と初めて話したのは、つい先日のことだった。
謙也サンに辞書を借りに行った日。
謙也サンも部長も目当ての辞書を持っておらず、使えないなと思っていると、彼女の方から話しかけられた。
どうやら席替えをして、彼女は謙也サンの隣の席になったらしい。
辞書なら持っているから、貸してあげるという彼女の急な申し出に驚いた。
「どうぞ」
そう言って笑顔で手渡された英和辞書。
初めて聞いた彼女の声は想像していたよりずっとずっと甘かった。


この気持ちが一方通行ではないとほぼ確信していた。
だから、借りた辞書に連絡先を書いたメモ用紙を挟んで返すことにした。
視線を交わすだけの関係なんてもう飽き飽きしていた。きっと彼女だってそうだ。だから俺にこの辞書を貸してくれたに違いないと思えた。
ただこれを直接彼女に返すのはやや気恥ずかしく、朝練が終わったのときに部室で謙也サンに彼女に返しておいてほしいと頼んだ。
謙也サンはぶつくさ文句を言うけれど、ほんましゃあないなあ!とか言って最終的には引き受けてくれる。
この人はなんやかんや言っても大抵のことはやってくれる。お人好しだから。そのうち誰かに騙されそうだなと失礼なことを考えながら制服に着替えた。

その日の昼休み、謙也サンに頼んだものの彼女の反応が早々に気になり、結局自ら彼らのクラスへ行ってしまった。
いつものように表向きは謙也サンたちに会いに。けれど実際は彼女に会いに。
しかし俺が教室に入るなり、彼女は立ち上がり、教室から出て行ってしまった。
そんなこと初めてだった。
出て行く後ろ姿を眺めても、彼女は振り向くことはなかった。

なんだか気まづくなってその後彼らの教室には行けていない。
そして彼女からの連絡も待てど暮らせど来やしない。
何故だろう。俺は何かしてしまったのだろうか。
いや、そもそも接触したこと自体あの辞書を借りたときが初めてなんだからそれはないだろう。
では原因はあのメモしかない。
直接彼女に話しかけられなかったことを女々しいと思われたんだろうか。
それともほとんど知りもしない後輩に急にあんなメモを渡されて気味悪がられたのだろうか。
はぁっと深いため息をつきながら、自室のベットの枕に顔を埋める。
ケータイを横目で見るが反応なし。
(クソッ!なんやねん!せやったら、初めっから期待させるようなことすんなや!)
ほとんど逆恨みのようなことを思いながら不貞寝した。


丁度あの日から一週間が経った。俺がクラスに急に行かなくなったことを朝練のときに謙也サンにツッコまれる。
「なんかあったんか、お前?最近いつもに増して機嫌悪うない?ウチのクラスにも全然来んくなるし。俺なんかした?」
「別に謙也サンの所為じゃないっスわ。ただ…」
「ただ?」
「イケるかなあ思ってた女子に無残にフラれただけっス」
「え? 財前、フラれたん?」
俺の声は他の部員にも聞こえたようで、それから部内でどよめきが起こった。
「光!なら私が慰めてあげんで」
「小春、浮気か!死なすど!」
いつもの阿保漫才をはじめた先輩たちを残して俺は早々に部室を出た。
フラれた。自分で言っておいてまた落ち込む。
ため息を吐きながら自分のクラスに向かった。


その日の四限目、移動教室から帰って自分の教室へ戻る廊下で彼女の後ろ姿を見かけた。
驚いた。三年の彼女が二年の教室の階にいるなんて今まで一度だって見たことがなかった。
上級生の彼女が二年生の階にいるもんだから、彼女はとても目立っていた。
それはいつもの清廉された目立ち方と違っていた。彼女はそわそわ慌ただしく誰かを探しているようだった。
無視しようかとも思ったが、困っていそうだったので見捨てることができずに声をかけた。
「先輩、どないしたんですか?」
「わ!」
彼女は俺が後ろから声をかけると心底驚いたように声を上げた。
振り返り、無言のまま俺を見つめる。
その表情はどこか怒っているようで感に触った。
そうだった、俺はおそらく彼女にフラれたのであった。そう思い出させる視線。
声なんてかけなければよかったと思った。

「あんな、辞書貸して欲しいねん」
「は?」
彼女は無愛想な表情のまま俺に話しかける。
「せやから辞書」
おそらくこの間の俺のように辞書を忘れて、同じ学年の奴には借りれなくてしぶしぶ二年のところまできたのであろう。
しかし辞書を貸してなんて俺によく言えるなと思う。
「…何のですか?」
けれどそれでもやはり彼女が困っているなら助けてやりたいと思う俺はどれだけの阿保なんだろう。
惚れた弱み。俺はフラれてもまだ彼女が好きだった。
「じゃあ和英」
「じゃあ?」
じゃあとはどういうことだろう。貸して欲しいのにそんなアバウトな要求ありえない。
「ないん?せやったらなんでもええ。この際、教科書でも」
ますます意味がわからない。
「三年のアンタが二年の教科書借りてどないするんですか?意味わからん」
「ええから、貸して!」
「…ちょ、待っとってください」
最後は押し切られるような形になった。
俺は自分のロッカーから和英の辞書を取り出し廊下にいる彼女に手渡す。
おおきに。と小さく呟いた彼女は辞書を抱え、走り去った。


その日の部活がいつも通り終わり、帰り支度をするために部室へ向かう。
隣で着替えていた謙也サンが、何やら自分のカバンを漁りはじめ、俺に辞書を差し出した。
「ほれ、コレから」
「は?」
に貸してたんやろ?返しとってくれって頼まれてん」
それは紛れもなく俺が今日、彼女に貸した和英の辞書だった。
まさか謙也サンから返ってくると思わなかったから驚いた。
と同時に落胆した。どんな形であれ、また彼女と話すキッカケができたと思ったのに。
「お前ら人を便利屋みたいに使うのやめろや」
そんな気持ちを謙也サンに悟られないようにハイハイと適当に相槌を打ちながら辞書を受け取る。
しかしうっかり辞書本体ではなくケースだけを持ってしまい、中身がバサリと音を立てて落ちてしまった。
それが謙也サンの足に直撃して、悲鳴が上がる。
「痛った!何すんねん、お前!ちゃんと受け取れや、アホ!」
「ほんまサーセーン」
「それ、謝る気ないやろ!ほんまに、お前は〜…あ!」
と謙也サンが急に視線を別なところに向けて声を出した。
何かと思い目線の先を見ると、そこには一枚の小さな紙が落ちていた。
「ん?なんやコレ?今、辞書から落ちたんやろか?えっとー…れんらくしなくてごめー」
謙也サンがメモを拾い上げ、読みはじめた。その文面にハッとなる。
彼がそれ以上読むあげる前にそのメモをひったくる。
「ちょっ!なんやねん!そんな奪いとることないやろ!」
「普通ようわからんメモをいきなり声に出して読みますか?どんな神経してんねん」
「うっさいわ!それが先輩に対する態度か!お前ええ加減にせえよ!」
「うっさいのは謙也サンやろ。そないきゃんきゃんきゃんきゃん吠えんでください。保健所連れてきますよ」
「ワンワン!って誰が犬や!阿呆!」
そんなやりとりをしている間にさりげなくメモをズボンのポケットにしまう。
その後、謙也サンを適当に受け流して、不自然にならない程度にそそくさと部室を後にする。
少し歩いて一人になったことを確認してから、ポケットからメモを取り出した。
少々シワになってしまったその紙を手の平で伸ばす。
そこには彼女らしい綺麗な文字で、あのときのメモへの返事が書かれていた。

「てゆーか、ウチのクラス、今日英語なんかなかったはずやねんけどな」
俺が部室を出るとき部長が不思議そうにそう呟いていたことを思い出した。









おまけ

「あ、先輩、昨日寝オチしたやろ」
「ごめんなあ、もしかして返事ずっと待っとった?」
「…別に」
「ほんまごめんなぁ、次からは寝るときは言うようにするな」
「…そうしてください」

先輩、辞書貸して」
「また忘れちゃったん?アカンやん。ハイ、どうぞ」
「おおきに。あ、今日部活ないんで、一緒に帰りましょ」
「ええよ」

先輩、言ってたCD持ってきましたよ」
「わ!おおきに!」
「なぁ」
「なぁあ!」
「なんスか謙也サン」
「忍足、うるさい」
「なんか知らんけど、お前ら最近めっちゃ仲良うなってない?」
「今更っスか?」
「いやいや、ナチュラルすぎていつツッコんでいいんやかわからなかってん。てかそのCD俺も貸して言うてたヤツやん」
「あ、そうなん?ごめんね。先、借りる?」
「ええんです、先輩、お先にどうぞ。てか、謙也サン空気読んで」
「意味わからん!なんの空気や!」
「まぁまぁ、謙也もそんな躍起にならんと。えっと二人は、付き合い始めたんやろ?」
「え?」
「まだですよ」
「まだやで」
「え?」
「まだって何!まだって!」