授業と授業の合間の短い休み時間。次の授業が理科室なので教科書と筆記用具を持って謙也と移動しようと廊下に出ると、彼女を見つける。
名前を呼べば嬉しそうにこちらへやってきた。
「今日、姉ちゃん帰ってくるで。ウチ来る?」
「いいの!」
彼女の大きな瞳が興奮気味にキラキラと輝く。
「おん。姉ちゃんにももう許可もろうてあるから安心しい」
「やったー!めっちゃ楽しみ!」
じゃあまた帰りにね!って大きく手を振って彼女は自分のクラスに駆け戻って行った。

「何や今日、白石家パーティー?」
隣にいた謙也が不思議そうに首をかしげる。
俺はまぁ、そんな感じやなと笑って答えた。


◇◆◇


放課後、下駄箱で待ち合わせたと一緒に帰る。
そういえば彼女が俺の家に来るのは結構久しぶりだと気付いた。
今まで部活ばかりの俺に彼女は何にも言ったことはないけれど、本当は寂しい思いをさせていたに違いない。
というか、そうであって欲しいと思う俺はなんて自分勝手で子供なんだろう。
やっと新学期に入って部活が一段落したものの、今度は受験という新たな障害物が俺たちの間に割り込んだ。
高校受験は将来と呼ぶには近すぎて逆に実感がわかなくて困る。
朧げな夢を叶える逆算をして自分の進路を決めたけれど、果たしてその計算が正しいのか俺にはわからない。
そんな漠然とした不安を抱えながらする勉強は孤独だった。
彼女ももしかしたら同じ気持ちなのかもしれない。最近、彼女は少し元気がなかった。
しかしそのことに気付きながら、俺はどうしてあげることもできなくて、それも歯痒い。
明るい未来のために、今は洞窟のような場所を手元の小さな灯りだけで歩かなければならないような気分だった。
彼女の手を引いてやりたかったが、そんな俺も壁を確かめながら歩くので精一杯だった。
それに正しい出口もわからない俺に彼女の手を握る資格はないような気がしていた。
そんなことを考えてるうちにあっという間に自分の家に着いた。
それもそうだ。俺の家は学校から徒歩十分、そして彼女の家はここからあともう一分。
俺たちはいわゆる幼馴染というやつだった。


玄関を開ければ母が俺たちを出迎えた。
「おかえり、蔵ノ介。ちゃん、いらっしゃい」
「お邪魔します!」
「姉ちゃんたちはリビング?」
「うん。今、ちょうど起きたとこやで」
の目がまたキラキラと輝く。興奮が抑えきれないっといった表情で俺の制服の袖を握ってブンブンと揺する。
それをハイハイと苦笑しながらなだめ、靴を脱いで荷物を置かせた。

リビングに行く前に洗面所へ行き、手を洗う。
は手の皮が剥けるんじゃないかと心配になる程入念に手を洗い、うがいもきちんと喉を鳴らして三回もしていた。
そういえば、うがい苦手じゃなかったっけ?と聞けば、いつの話だとむくれた顔がこちらを向いた。
確かに、その記憶はおそらく彼女がまだピーマンが食べられないと泣いていた頃のものだった。

ちゃん、久しぶりやね。今日はおおきにね、この子のために来てくれて」
姉の腕の中ですやすやと眠る小さな赤ん坊を見て、が声を必死に我慢して悶絶する。きっと本当は可愛さのあまり叫び出したくて堪らないのだろう。
「お姉さん、この度はほんまにおめでとうございます」
「おおきに」
母になった姉が優しく微笑み返した。


俺は先週伯父になった。
俺は引退した今でも週一くらいのペースで部活に顔を出していた。
その日もちょうど部活に行っていた日だ。部活が終わって携帯を見ると母から「お姉ちゃんが産まれそうやから美容院行ってきます」というメールが入っていることに気づく。
慌てて打ったに違いない。文面も若干おかしいし、おそらく美容院ではなく病院の間違いだろうと苦笑する。携帯を閉じ、帰り支度をして、さあ俺も病院へ行こうと部室を出ようとしたときに財前が俺を見て一言。
「部長、いくらなんでも捕まりますよ」
訳が分からず、財前の冷たい目線を追うと自分の下半身に辿り着いた。
俺は上は学ラン、下は下着のパンツ一枚という出で立ちだった。
さすがあの母親の息子や!と自分で自分にツッコんだ。


「抱いてみる?」
「ええんですか?」
「もちろん」
そおっと姉ちゃんの腕からの腕に赤ん坊が移動する。
「かあいい…かあいいなぁ、なあ?」
同意を求めるようにが俺を見る。
「そやなあ」
俺がそう返事をすれば、はまた嬉しそうに顔をほころばせた。
小さな新しい命を守るように抱いてる彼女の姿はなんだかとても大人に見えた。
姉もそうだが、女性は子供を抱いているとそれだけで皆マリア様に見えてくるから不思議だ。

ちゃんも早う蔵と結婚してこの子の従兄弟産んだって」
なんてロマンチックなことをぼんやり考えてたら、突然の姉の発言に見えない鈍器で頭を殴られる。
「姉ちゃん!」
慌てて姉のありえない要求に俺は阿保みたいにツッコんだ。はきょとんとしている。
「あ!あんたらチューもまだなんやったけ?」
「姉ちゃんんん!」
さらに追い討ちをかけるような姉ちゃんの言葉に声が大きくなってしまった。
すると俺の声に反応したようにの腕の中で赤ん坊がムズムズと動き、泣き出してしまった。
「蔵の阿保!赤ちゃん起きちゃったやん!」
泣き出した赤ん坊にが慌てる。
姉ちゃんが「伯父ちゃんはほんまヘタレやなあ」と言いながらから赤ん坊を受け取った。


「お邪魔しました」
「ほな、のことちょっと送ってくるわ」
ちゃん、また来てね」
「はい!」
名残惜しそうに何度も手を振るを連れて玄関を出る。
住宅街の通りは街灯がちらほらついているだけで、かなり暗い。
俺は玄関が完全に閉まっていることを確認してから、彼女に向かって左手を差し出した。
「手、繋ぐの?すぐそこやけど」
彼女はその手を不思議そうに見つめた。
「…繋がへんの?すぐそこやけど」
俺が少し不機嫌な顔をすれば、ほな繋ごうかと彼女の右手が俺の手の上に重ねられた。

「ほんまかあいかったなあ」
彼女が夜空を見上げながら、さっきまでの光景を思い出すように言う。
繋いだ手を振りながら歩く距離は、たかが数百メートル。俺はこの距離に感謝することもあれば、恨めしく思うこともある。
幼馴染という特別な距離は、俺たちを曖昧な関係のままにさせていた。
きちんと自分の気持ちを彼女に口にしたことはまだない。
それでもいつだって手を握ることを許してくれる彼女に俺はずっと甘えていた。

目の前の角を曲がればもう彼女の家だ。
繋いだ手に少しだけ力を込めてみた。放したくない、まだもう少し二人でいたい。そう口には素直にできないところが、ヘタレと言われる原因なのだと自分でもはわかってはいる。
それに気づいたのか気づいていないのかわからないが、彼女の足が止まった。そして俺の足も止まる。
静かで暗くて、夏の終わりの夜は冷んやりと湿っている。それが空想の中の洞窟を思い出させた。

「あの子にはどんな風にこの世界が見えてるやろな」
独り言のように彼女がぽつりと呟いた。
「あの子に恥ずかしない大人になりたいな」
そう言った彼女の表情は何かを見つめていた。遠い先の出口だろうか。
ごくりと俺の喉が鳴る。
ほな、送ってくれてありがとうと言って繋いだ手を離そうとするのを慌てて阻止した。
何?と見上げる彼女の腕を軽く引き、彼女が身構えてしまう前にその唇に自分の唇を重ねる。

ゆっくりと離れ、彼女の顔を伺えば何が起こったのかわからないというように目を瞬かせていた。
時間が経てば経つ程羞恥心が熱を持つ。
彼女が何か言い出す前に帰ろうと、ほななっと言いかけた俺の手を今度は彼女が強く引いた。

「大人になってもずっと一緒にいてな」
俺の早鐘を打つ心音を聞くように彼女の耳がピタリと俺に寄せられた。
おうと相槌を打つだけで精一杯な俺の手に再び彼女の手が重ねられる。
俺が手を引いてやりたいなんて、そもそもおこがましかったことに気づいた。
小さい頃二人で迷子になり、大泣きした日があった。先に泣き出したのは確か彼女だったはずだが、俺も結局泣いてしまったのを覚えている。
けれどわんわんと一頻り泣いたあと、ぐっと涙を拭いて俺の手を握り、また歩き出したのは彼女の方だった。