八月某日 天気は晴れのち雨

昼を過ぎたあたりからどんどん雲行きが怪しくなっていき、気づけば窓ガラスを突き刺すような雨が降ってきた。
彼は傘を持っているだろうかと一瞬考えたが、すぐに思い直す。
彼が天気予報を外し、雨に濡れて帰ってきたことが今までに一度だってあっただろうか。
少なくとも私と暮らしてからはないはずだ。
ならば心配事もなくなった。時刻は午後五時。さあ、始めるか。

米を二合、ボウルに量り入れ、手早く洗う。
それを炊飯釜に移したあと、規定の分量より少しだけ少ない水を入れて、炊飯器にセット。

冷蔵庫や収納棚から、今日必要な食材をダイニングテーブルに一気に出す。
キュウリ、モロヘイア、生姜、昨日下味をつけたおいた牛蒡と人参、 豚肉、作り置きの鰹出汁、長ネギ、とうもろこし。
何度もパタパタと冷蔵庫を開け閉めするより、一気に出してしまった方が楽なのだ。

ではまず、とうもろこしの外皮を剥ぎ、身を削ぎやすいようにまっぷたつに。
一気に切ろうとせずにくるくる回してポキン。
半分にできたら、縦にして身を包丁で削ぐ。
削ぎ終わったら、芯も一緒にさっきの炊飯釜へ。あ、塩も少々。

それから、モロヘイヤをざっと洗って、茎を下にしてボウルに浸けておく。
葉物は調理する前必ずこうする。水を吸い上げて、再び元気になってくれる。…気がするから。
長ネギを斜め薄切りにしてたっぷりの水にさらす。五分くらいかな。
キュウリは先端を落とし、ピーラーで同じ方向に剥いていく。リボンみたいで可愛い。
さっきの長ネギを水切りして、同じボウルにキュウリを入れて、ラップをかけて冷蔵庫へ。

中位の鍋にお湯を沸かす。
モロヘイヤを茎と葉っぱにプチプチ手で分けていく。
モロヘイヤの茎は意外の硬い。だから少々面倒でも、こうしておかないと茎が茹だる頃には葉が茹りすぎちゃう。
お湯が沸いたら、塩を加えて、茎を入れる。
間を開けて葉も投入。菜箸で葉を沈め、わりとすぐにザルへ。冷水にとって熱を取る。

今日は中位の鍋が大活躍。けれど、この家には最低限の調理器具しかないから、先ほどのモロヘイヤを茹でた鍋をすぐまた洗う。
今度、もう一つくらいお鍋買おうかな。
鍋の水気を十分に拭いて、もう一度お湯を沸かす。
それからボウルに氷水を用意。
お湯を沸かしている間、しゃぶしゃぶ用の豚肉のパックを開けて、片栗粉をまぶす。
面倒だからパックの上で。でも、一枚、一枚、丁寧に。茹でる時もちゃんと一枚、一枚ほぐす。
お湯が沸いたら酒を加え、一旦火を止める。あんまり熱いお湯で茹でると肉が固くなるから。
お湯が少し冷めてきたら、肉を入れていく。
豚肉だからきちんと火を通して。でも通し過ぎても駄目。
ピンク色の生の部分がなくなったら、氷水にあげる。
全部茹で終わったら、水を切り、ボウルに移してこれもラップをして冷蔵庫へ。

今度は小さな鍋に出汁を注ぐ。
出汁は急に沸いて溢れるから怖い。
蓋をずらして、中火にかける。
出汁を火にかけてる間に、生姜をほんの少しだけすりおろす。
それから先ほどのモロヘイヤを刻む。粘り気が出るように包丁で叩くように。
出汁が沸いたら調味料を入れて、生姜とモロヘイヤも入れる。
味見をして、大丈夫であれば火を止める。スープの出来上がり。

さあ、あとは牛蒡と人参だ。
ニンニクと生姜と砂糖に醤油に酒、それからオレンジジュースもちょっと入った液に一晩つけて置いたそれをザルにあげる。
余分な液を落としてからポリ袋に入れて、片栗粉を入れる。ぷうと空気を入れて、シャカシャカ、シャカシャカ 。
小さなフライパンに油をやや多めにひき、火にかける。
それが十分にあったまったら、牛蒡と人参を一つずつ離して投入。
初めは触らない。じゃないと衣が剥げて、ただの素揚げになっちゃう。
衣が固まってきたらひっくり返す。揚げ物にしてはやや弱火でじっくりと火を通す。その方が甘くなって美味しい。

揚がった牛蒡と人参を順にバット網に取っていると、玄関で鍵が開く音が聞こえた。
「おかえり」
「ああ、ただいま」
台所から顔を出して、帰ってきた彼を見る。
やっぱり彼は傘を持っていたようで濡れてはいなかった。
「外、すごい雨だね」
「いや、もうだいぶ弱まってきている。じきに止むだろう」
「ふーん、図書館、なんかいい本あった?」
「まぁまぁといったところだな」
「そっか。もうすぐご飯できるから、ちょっと待ってて」
「分かった」
彼は持っていた夕刊をテーブルに置き、手を洗いにいった。

スープを沸かしなおして、使った調理器具を洗う。
洗い終わったら、冷蔵庫で冷やしておいたキュウリと長ネギと肉、それからゴマだれとポン酢を取り出す。ついでに、昨日漬けておいた茗荷の甘酢漬けも。
キュウリを皿に盛り付け、肉と長ネギを一緒に混ぜ、そこにゴマだれとポン酢を同じ分量まわしかける。
いつだったか子供の頃、テレビで歌手がしゃぶしゃぶはゴマだれとポン酢を混ぜると美味しいと言っていたので、それ以来私はこのミックスダレで食べている。
ゴマだれのまろやかさとポン酢のすっきりさ。お互いの良さを引き立てあっているような、打ち消し合ってるような。
なんだか曖昧な加減が、私たちのみたいだなっと思ったら笑えた。
「何か面白いことでもあったのか?」
気がつけば彼は私の横に立ち、沸いているスープの火を止めてくれた。
「ううん。なんでもない」
「そうか、ご飯が炊けたようだな。よそおうか」
「あ、待って」
そう言って、冷蔵庫からバターを取り出す。
炊飯器を開けると甘い香りが穴を抜ける。
「今日は炊き込みご飯か」
「うん。とうもろこし。で、ここにバターを一カケ」
芯を取り出し、しゃもじで混ぜる。
「よし!ご飯にしようか」



「今日は随分夏らしい献立だな」
彼が綺麗に紅色に染まった茗荷を箸でつまみながら言った。
「うん。そろそろ夏が終わりそうだから慌てて夏っぽくしてみた」
「美味しそうだ」
「うん。じゃあ、いただきます」
二人で向かい合わせに座り、手をあわせる。

「もうすぐ学校始まるねえ」
うん、牛蒡も人参も噛めば噛むほど甘くて美味しい。味が染みた衣も美味しい。
「大学の夏休みは長いと思っていたが、過ぎればあっという間だな」
モロヘイヤのスープもとろとろしてて、すんなり喉に入ってくる。
少々高い野菜だが、夏しか食べられないからたまにはいい。
「そうだねえ。私、今年も何にもしてないや」
しゃぶしゃぶを咀嚼しながら自分の今年の夏を思い浮かべる。
が、しかし何も出てこない。いつも通り本を読んで、課題をして、料理をして、それを食べていただけだ。
なのに毎年夏の終わりになると雨が多くなって、寝苦しかった夜も冷んやりしてきて、そしてなんだか物悲しい気分になる。
大切な何かを何処かに置いてきてしまったような、そんな気持ちだ。

「例えば何がしたかったんだ?」
彼の問いにしばし考える。しゃぶしゃぶは飲み込んだ。
「え、…う、海、とか?」
「ほお」
「…山、とか!」
「ほお」
「川、とか!」
「お前は本当にそんなアウトドアしたかったのか?」
「…いや、いいや。涼しい家で本読んでたい」
「だろうな。やっぱりお前は面白い」
確かに気持ちだけなのだ。夏に何か特別な思い出があるわけではない。
誰かの思い出をなぞるように夏らしいことを思い浮かべてみても、私には何も響かない。
「蓮二くんにはさ、何か夏の思い出とかある?」
「俺もさしてないな。いや、−」
彼の言葉が一旦途切れ、何か思い出すように顔が上がる。
彼は何か思案するときゆっくり瞬きする癖がある。
長い睫毛が上下に動き、風さえ起こしそうだ。蟻くらいなら本当に飛ぶんじゃないかな。

「今日は何日だ?」
二人同時に壁にかかったカレンダーに目が行く。
「二十日。八月二十日だよ」
「そうか」
彼の眉根が中央に寄り、眉間に小さな皺をつくる。けれどそんな目元とは反して薄い唇は緩やかな弧を描いていた。
曖昧な表情だ。私には彼が嫌なことを思い出してるのか、嬉しいことを思い出しているのか、はたまた全然別のことを思い出しているのか判断がつかない。
「どんな思い出か聞かせて欲しいな」
そう素直に問えば優しい笑みが私に向けられた。
「他人が聞いて面白い話かどうか判らないが、いいか?」
「うん。聞きたい」
蓮二くんのこともっと知りたい。せっかくこうやって二人で暮らしているんだ。
もっと仲良くなりたい。

「あれは中学三年生の——」


彼の低い声が彼の物語を紡ぐ。
私はそれをただただ聞いていた。