鏡の前でイアリングを付けかけてやめた。
しかし夜の立食パーティーなのだから少しは華やかにしなくてはと思い、代わりに大きめのイミュテーションジュエリーの着いた髪飾りを耳の上に留めた。
不二にパーティーに誘われたのは昨日のことだ。
電話口で、同伴してほしいところがあると言われた。そんなの他の女を誘え、いくらでもいるだろうと言えば、友達の中で君が一番綺麗だからと言われた。
白々しいセリフにイラついたが、不二とは友達だ。頼まれごとは聞いてあげることにした。

会場の入り口前で不二と合流する。彼はスーツ姿だった。
「ところで、コレいったい何のパーティーなの?」
不二は昨日の電話口でも教えてくれなかった。私は、ただの知り合いのお祝いだとしか聞かされていない。
不二は私の問いに答えることなく、先に進む。仕方なく後について入り口で受付を済ませ、会場に入ると店内はすでにかなり混雑していた。
都会の一等地の大きなこのレストランを貸し切るパーティーなんて、いったい何のお祝いなんだろう。
あたりを見回していると見知った顔をいくつも見つけた。
彼らもこちらに気づいたようで名前を呼ばれる。
「不二!あ!え!?」
菊丸英二と乾貞治と大石秀一郎だった。
嫌な予感がした。
丁度そのとき会場内にアナウンスが響き渡った。

「これより手塚国光優勝記念パーティーを始めたいと思います。皆様お手元にグラスをご用意ください」

私は思わず不二を睨んだ。


◇◆◇


私が手塚と付き合っていたのは中学三年生のときから大学一年生の約四年間だ。
四年間といっても彼はそのほとんどを遠い海の向こう、遥か彼方ドイツで過ごしていたので、実際に顔を合わせていた時間を集計すると四日にも満たないかもしれない。
しかし私にとってはかけがえのない四年間だった。

付き合いだして、手塚に初めてプレセントを貰ったのは高校に上がった年のことだ。
「少し遅れたが、誕生日プレゼントだ」
そう言って小さな箱を手渡された。私の誕生日は二ヶ月も前のことだったので苦笑した。
そっとその箱を開けると小さな貝殻のモチーフが着いたイアリングだった。
指輪でもなく、ネックレスでもなく、イアリングという選択が手塚らしいと思った。
以前、どこかで聞いたことがある。男性が女性に装飾品を渡すのは独占欲の現れなのだと。
イアリングはその他の装飾品より限りなくその意味合いが薄いように感じた。
どんなに頑張っても彼の優先順位はいつだってテニスで、彼自身の夢だった。
それでも人としての優先順位ならば、私はきっと上位に入れてもらえるだろう。じゃなければ、日本にいれる極僅かなこの時間を私に会うために割いてくれるわけはないのだから。
「森のくまさんみたいで可愛い。ありがとう、大事にするね」
心を込めてお礼を言った。
指輪が欲しかったなど口が裂けても言えなかった。


私の優先順位が物事も人も含めても手塚が一位だった頃はそれで付き合いが成立していた。
会えない間は、メールを送る。電話はほとんどしたことがない。
メールなら相手の都合をあまり考慮に入れることなくできるので、私にとってもありがたかった。 一週間に一、二通私から。二、三週間に一度手塚から返事がくるようなペースだった。
もともと二人とも一分一秒を惜しんで逢瀬を重ねるタイプの人間ではない。寂しく思うことはあったが、それでも彼が好きだと言う気持ちが勝っていた。
高校三年生になり、私も自分の将来を真剣に考える時期がやってきた。
今まで朧げだった夢と呼ぶには気恥ずかしかったことを具体的にするために、私は必死に勉強した。
自然と手塚との交信は途絶えがちになった。
そうして無事大学に合格する頃にはほとんど絶縁状態だった。
私の優先順位が彼ではなく自分の将来に向いた途端、関係が薄らいだことに少なからず落ち込んだ。
しかしすでに目の前にある自分の未来が一番大切だと結論を出している自分がいることに気づく。
だから大学一年生の夏、彼が日本に帰ってきたとき、私は自ら別れを告げた。
「これ、返すね」
それはいつかの小さな貝殻のイアリング。これを付けて彼に会ったのは三回しかなかった。
手塚はそれを何も言わず受け取った。
それが私たちの最後だ。


◇◆◇


「いい加減認めるべきじゃない?」
未練がましい。もう遅い。私だってわかってる。今の私は叶えたかった夢を叶え、欲しかったものはそれなりに手に入れれた。
けれど思い出すのはあの頃のことばかりだ。自ら手を離したくせに。
遠くで人に囲まれている手塚が目に入る。彼も昔とは違い、輝かしい栄光を手にいれていた。
私と付き合っていた頃はお世辞にも上手くいってるとは言えなかった。度重なる身体の故障やスランプなど様々な問題を抱えながら、それでもひたすらにテニスに向き合っていた。
彼が有名な大会で活躍するようになったのは辛くも私と別れてからすぐのことだった。
「…わかってる」
「じゃあなんで連絡先消してないの?」
こいつはプロのマジシャンか、はたまたスリか。私の携帯はいつの間に不二の手の中だ。
しかもこちらに向けた画面にはCALLINGと手塚国光の文字が映し出されている。
慌てて彼から携帯をひったくり、電話を切る。
不二を睨んでも、涼しい顔で流された。
「このあと元テニス部で飲みに行くんだけど、も来る?」
不二がいけしゃあしゃあと私に尋ねる。
「いい。私、明日も仕事あるから」
「休みなのに大変だね」
そう言って笑う不二を残し、会場を後にする。
一瞬、遠くで手塚がこちらを見た気がしたが立ち止まらなかった。

レストランを出てすぐ、通りでタクシーを捕まえる。
行き先を伝え、瞳を閉じる。
当たり前だが、手塚は私を追ってはこなかった。そんなことを少しでも期待した自分を嘲る。
異様な疲労感が私を襲っていた。


◇◆◇


結局昨日はあまり眠れなかったが、職場へ行く。
本当は今日でなくてもいい仕事だが、独りで家にいると気が滅入りそうだったので、無理矢理用を作った。
外に出れば少しは気分が晴れるのではないかと思ったが、全くその様子はない。
気分の問題か、はたまた身体の問題か。慣れないシャンパンを飲みすぎたのかもしれない。二日酔いとまではいかないものの身体がどんどん怠くなる。
職場に着くと休日にもかかわらず、同期の男が一人出勤していた。
「お前、酷い顔だぞ」
うるさい、いちいちそんなこと女に指摘するなんてモテないぞ、と心の中で悪態をつく。 この同期は人はいいんだが、あまり気遣いが上手いタイプではない。
「ちょっと昨日ね」
「男にフラレたのか?」
「違います」
コピー機に用紙をセットする。このコピー機は先日から不調気味でよく用紙がつまる。 十部毎にピーピーとエラー音を鳴らすのでたまったもんじゃない。
そうこう話しているうちに、またピーピーと甲高い音が鳴り響いた。
屈んで、詰まった紙を引き抜く。インクで汚れた紙を隣のゴミ箱に乱雑に放り込む。
コピーはあとまだ三十部も残っているのだ。コピー機を再起動させようと立ち上がった瞬間視界が遠のいていくのを感じた。同期が慌ててこちらに来るのが見えた。
それを最後に私は意識を手放した。



ここは何処だ?
あぁ、中等部の生徒会室だ。
たまたま前を通りかかると、扉が開いていて、強い風が鼻先を通った。
無人の生徒会室は何故か窓が全開で、風で机の上の書類が飛んでしまっている。
急いでいるわけでもなかったので、私はそれらを善意で拾ってあげることにした。
部屋に入り、窓を閉め、散らばったそれらを拾いにかかる。
しゃがんで書類を集めていると誰かが部屋に入ってきた。
その人物が腰を屈め、私が拾おうとした最後の一枚に手を伸ばす。
頭と頭がぶつかった。顔を上げると、そこにいたのは手塚国光だった。
こんなに近い距離で彼に接したのは初めてだった。それもそうだ。だって私たちはただのクラスメイトなのだから。
だから次の瞬間、手塚が私にキスをしたことにとても驚いた。
それはほんの一瞬だった。けれど間違いなく、彼の唇は私のそれに触れた。
それはいつもの理性的な手塚らしくない衝動的な行動だった。
しかしそうさせたのが、自分だと思うと堪らなく嬉しかった。
期待を込めて彼を見ると、予想に反していつも通りの感情の読めない表情のままだった。
このままだと今の出来事はなかったことにされてしまいそうだと何故か私の方が焦り、今度はこちらから彼に口付けた。
持っていた書類がまたパサリと床に落ちた。
それが私たちの始まりだ。


◇◆◇


一瞬の走馬灯から覚め、目を開けると見覚えのない真っ白いやけに明るい天井だった。
「お、気がついたか?ここ、病院だぞ。わかるか?さっきお前、倒れたんだよ」
半身を起こし辺りを見渡す。腕には針が刺さり、その先には液体に繋がったチューブが連結されていた。
「とりあえず、誰か身内に連絡した方がいいと思ったんだけど、お前の携帯見てもよくわかんなかったから、送信履歴の一番上の奴に連絡したぞ」
「送信履歴の一番上…?」
働かない頭で必死に考えるが誰だったか思い出せない。私は、あまり普段から電話をかける習慣を持ち合わせていない。 「うん。確か手塚って人…」
また血の気が引くのがわかった。なんだその雑な優しさは!と同期を睨む。
「馬鹿!阿保!ドジ!間抜け!早くなんでもないって連絡しなきゃ!」
そういって同期が持っていた私の携帯をひったくる。
「でも、その人もう来てるよ?」
その言葉とほぼ同時に扉が開き、手塚が姿を現した。
「声が聞こえて、目が覚めたのかと思って開けたのだが…」
手塚を見た瞬間の私の表情にただならぬものを感じ取ったのだろう。同期は「お大事に」と一言残し、そのまま退散していった。今度覚えてろよっとその背中に向かって心の中で叫んだ。

長らく沈黙が続く。
その沈黙に先に根を上げたのは私だった。
「あの、手塚、急にごめんね、もう大丈夫だから−」
帰っていいよっと告げようとした時に、看護士が部屋に入ってきた。手早く点滴の針を抜き、針の跡に小さなシールを貼られる。
「体調に問題なければ、支度をしてくださいね。お会計は出口付近に自動精算機がありますよ」
にこやかだけれど、強制的な物言いだった。それもそうだ。ただの二日酔いないし寝不足なんだから、早く帰れと言いたくなるのも理解できる。
そそくさと身なりを整え、手塚とともに診療室から出た。
会計を済ませ、病院の出口まで二人とも無言だった。
「今日は本当にごめんね」
「いや、無事なら構わない」
「私、タクシーに乗って帰るけど、手塚はどうする?」
「…もう体調は大丈夫なのか?」
「うん」
「なら少しあっちで休んでいかないか?」
そう言って手塚は病院の中庭を指差した。


中庭のベンチに腰を下ろす。周りには散歩をしている入院患者や、駆け回る子供たちがいる広い中庭だ。
手塚が缶コーヒーとオレンジジュースを持ってこちらに戻ってきた。
私にオレンジジュースの方を渡す。私はそれを開けずに、掌で握る。冷たくて気持ちがいい。
私は還元濃縮されたオレンジジュースが苦手だった。四年も付き合っていたのに、そんなことも知らない手塚に苦笑した。
昔からそうだ。手塚は私のこと何も知らない。でもきっと私も手塚のこと全然知らない。
「昨日はろくに挨拶も出来ずすまなかった」
「ううん、私の方こそ…」
「まさかがあの場にいるとは思わなくて驚いた」
「そうだよね、でも実は私も不二に何も知らされずに連れてこられたからびっくりしてたんだ」
「そうか…仕事は忙しいのか?」
「うん。少しね」
「そうか…しかし体調管理は怠るのは感心しないな」
「…はい」
少しずつ会話が途切れがちになる。
正直早く切り上げて帰りたくなってきた。じゃないとふとした瞬間に本音が漏れそうで冷や冷やする。
「て、手塚…そろそろ−」
立ち上がろうと腰を浮かせた瞬間、風が吹いて持っていた書類が宙を舞う。
先ほど病院から渡された領収書やら案内やらの書類だ。別にいらないものだが、そのまま風に飛ばされたままというのもいかず、拾いにいく。
結構遠くまで飛ばされてしまった。全部拾い集めたと思い、ベンチに戻るとまだ一枚手塚の足元に落ちていた。
それを拾おうと屈むと、手塚も屈んだ。
まるであの時のように。
途端に私の目から涙が溢れ出す。あぁ、これは先ほどの夢の続きか。そんなはずないのに。

「俺はお前にこれを渡すために日本に戻ってきたんだ」
そういって手塚は、ズボンのポケットから小さな箱を私に差し出した。

「昨日、不二にいい加減認めるべきだと言われてな」

 「いい加減認めるべきじゃない?」
 「何がだ」
 「今、君がを目で追った理由だよ」


「俺はお前以外では駄目らしい」


パカっと音をたてて開いたそこには本物の輝きを放つ小さな石がついた指輪があった。



inspiration by music:安室奈美恵『Love Story』