練習が一段落し、ドリンクを片手にコートの壁面にもたれかかる。
暑くて、拭いても拭いても汗が零れ落ちる。けれどそんな不快すらどうでもよく思えるほど、今の俺はまたテニスが出来ることに喜びを感じていた。

遠くで赤也とマネージャーが二人で仲睦まじく話しているのが見える。
彼らが付き合っていると知ったのは昨日のことだ。
偶然、学校から遠いコンビニで彼らが手を繋いでいるところに出くわしてしまった。
本当は何か言いたかったがマネージャーが今にも泣き出しそうに顔を真っ赤にしてしまったので、可哀想になりその場では「気をつけて帰りな」の一言を言うだけに留め大人な対応をした。
俺が入院する前の彼らは全くそんな雰囲気はなかったと、彼らと分かれた後必死に過去に思いを巡らす。そういった他人の感情の機微に聡いと自負している俺が思うのだから確かだろう。
俺が入院してから退院するまでの約十ヶ月間、彼らには関係を変える何か大事があったのかもしれない。
改めて十ヶ月間という期間は人の関係性を変えるのに十分な時間だということを痛感した。

俺にもかつて、あんな風に一緒に過ごしたいと思っていた子がいたなと朧げに思い出す。
同じ委員会の同級生で、名前は。ややせっかちなだが、明るくて元気な女の子だ。
二年生の時に同じ美化委員会になり、少しずつ彼女に惹かれていった。いつかこの想いを彼女に告げてみるのも悪くないと思っていた。
しかし結局それが実行されることはなかった。
今や彼女を思い出しても何の色もない。長い冬がその熱を完全に奪い去っていってしまった。
もう何故彼女を好きだったのか思い出せないし、そもそも本当に好きだったかも疑うまでになっている。
それを少し寂しいと感じつつも自然と受け入れている自分がいることに気付いたのは夏の大会が全て終わった後だった。


「あ、本当にいた」
そんなことを考えていると突如、頭上から声が降ってくる。
何かと思い見上げるが、既にその声の主は階段を駆け下り、自分の元に来ようとしているところだった。
「さっき、バスケ部の子に幸村が学校にいるって聞いたの!退院したんだね!おめでとう!」
「あ、うん。ありがとう」
突然の訪問に驚き、瞬きが増える。彼女の顔を見たのは、やはり十ヶ月ぶりだ。
「あのね、見せたいものがあるの!ね、ちょっと来て!」
そう言って彼女は俺の両手を捉える。彼女の興奮している様子と手から伝わる体温に戸惑う。
「そこで何をしてる、!此処は部外者立ち入り禁止だ!」
異分子を目ざとく見つけた真田がこちらに闊歩してくる。
「ちょっとくらいいいじゃない!それにもう三年生は引退のはずでしょ!」
真田に怒られれば大抵の女子は怯むのだが、彼女は全くそんなことはないようだ。
俺を真ん中に挟んで真田と彼女が口論を始める。
「少しくらいいいんじゃないか、弦一郎。それに精市は小まめに休憩をとった方がいいだろう」
埒があかないこの状況を見て柳が助け舟を出してくれた。
「やった!じゃあ、行こう!」
こうして俺はまだ何か文句を言っている真田と和かに手を振っている柳を残し、彼女に手を引っ張られて走り出す。
何処にいくの?と聞いても、彼女はいいからいいからとしか応えてくれない。
校舎に入り、下足を脱ぎ上履きに履き替え用としたら、それすら急かされ靴下のまままたも走り出す。
彼女と手を繋いだまま廊下を走る。そういえば復帰したのは八月に入ってのことだったので、通常授業はなく学校に来ても部活中心の生活を送っていた。
だからこうやって教室のある廊下に来るのは久しい。
何の変哲もない学校の廊下だ。ただまだ夏休み中だから普段は大勢いる生徒が誰もいない。俺と彼女のけたたましい足音だけが鳴り響いている。
そういえば、クラスの違う彼女との数少ない思い出は廊下が多かったなと思い出す。
朝練後にたまたま廊下で会って交わす簡単な挨拶にも笑顔な君。教科書を忘れたから貸して欲しいと舌を出す君。仁王や丸井たちと仲良さそうにはしゃぐ君、そしてその姿に眉をひそめる俺。
次々と忘れ去ったと思っていた記憶が蘇る。
廊下を一気に駆け抜け、次は階段を上る。もう上る階段がなくなり、やっと彼女の足が止まった。
彼女は俺の手を離し、重い扉を身体を使って押し開ける。
途端、圧倒的な光の攻撃を受け、目を閉じた。
間を置き、目を開けるとそこは学校かと疑うほどの光景が広がっていた。
色とりどりの花や実をつけた植物が辺り一面を支配している。俺は言葉を失い、ただ呆然とその場に立ち尽くす。
俺が入院する前の此処は殺風景でせっかくの施設を持て余していた。
だから此処を植物でいっぱいにしようと計画を立てたのはまだ俺が入院する前の委員会でのことだ。
しかしそれが実行に移る前に俺は倒れた。息を巻いていたのは俺だけだったから、計画は頓挫したとばかり思っていた。
目の前に広がる色鮮やかな緑は今しがた水やりを終えたようで、透明なガラスの粒で着飾られていた。
その中で、俺を振り返り両手を広げ「おかえりなさい」と笑う彼女を見て、頬に熱が宿る。



燃え尽きて灰になってしまったはずだったのに、それは再び生命を取り戻し蘇った。

俺は彼女に再び恋をする。