彼はあんな風に笑う人だったろうか。
なんというか無防備に顔に横のシワが入るようなあどけない笑顔だ。
夏休みが開けてテニス部の主なるメンバーは少し雰囲気が変わったような気がする。

テニス部で何かあったのかと前の席の柳生くんに尋ねると
「 憑き物が落ちたってところですかね」
というポエマーな答えが返ってきて私をより混乱させた。

特に先ほどの真田くんとそれから幸村くんの変化は顕著だ。鎧を脱いだという感じ。これは女子がほっておかない。
現についこのあいだまで幸村くんは怒涛の告白攻撃を各方面から受けていた。
しかしそれが早々に止んだのは、彼がいち早く一人の少女を選んだからだ。
幸村くんが選んだのは、ずっと噂されていたテニスのマネージャーだった。
真田くんへの攻撃は今の所あまり目立った動きはない。多分それは元々の彼の性格によるものだろう。
いくら少し柔軟になったからといって、急に色恋をちらつかせれば直ぐさま眉をひそめられそうだ。
だから意外と露見していないだけで、水面下で真田くんを好きな子はいるかもしれない。少なくても一人はいる。
その証拠に彼が笑うと私の心臓がどきりと跳ねる。

三年生の最初のホームルームで各委員会のメンバーを選出しなくてはならなかったのだが、その中でも朝早く来なくてはいけなかったり、放課後も何かと残らなければならない風紀委員の女子はなかなか決まらなかった。いよいよ教室の雰囲気が悪くなってきたので、私は自ら手を挙げた。誰かがやらなくてはいけないのに、誰もなりたくないのなら仕方ない。その時はそう思っただけだったが結果的にはこの上なく幸運なことにつながった。
こうして私は同じ委員会の委員として真田くんと関わるようになった。なんとなくすぐに特別なものは感じつつもその気持ちはあまりにも不確定で、そっと見ないふりをしていたのだが、夏休みが開けて彼の変化を目の当たりにして、もう見ないふりは無理だなと悟った。

金曜日の放課後、各委員会の招集があり、いつも通り風紀委員が一番遅くまでかかったばかりか自分の教室に帰ってもまだやらなければならないことがあるそうだ。
真田くんが道具をとってきてくれる間、なんのことなしに窓の下に見える昇降口に目をやると丁度幸村くんと噂の彼女が仲むつまじく帰っているところだった。
「…いいな」
静かな教室で一人、願望がつい口元から滑り落ちた。
「何がいいのだ?」
「わ!」
予想外の早さで教室に現れた真田くんにどきりとした。彼は両手に小さなダンボールと模造紙を抱えたまま、私が見ていた窓の下見た。
「…幸村たちか…」
つぶやくように彼の名を呼んだ真田くんの表情は何故か苦々しい。
その理由が気になるが、今彼と幸村くんの話をすると色恋の話になりそうなので避けた。
うまく自分の気持ちを隠せる自身もない。

「じゃあ、ちゃちゃっとやっちゃおっか!」
なんとも言えない微妙な雰囲気を打破するため、できだけ明るく次の行動を仕向けた。
けれど真田くんは動かない。目線はまだ幸村くんたちのまま口元をへの字にまげている。
「…誰かを好きになるということは、決して周りの奴と比較して優劣をつけているわけではない。その相手だけがどうしても他の枠組では括れなくなるだけの話だ」
真田くんの口からそのようなことが出てくるとは思わずびっくりした。そしてこの口ぶりではっきり彼にも好きな人がいることがわかった。そういう人がいなければ今の考えには至らないであろう。
視線の先から察するに、もしや幸村くんの彼女ではないかという考えが頭をかすめる。どうだろうか。

「…だから、こればかりはが悪いわけでも幸村が悪いわけでも…」
ここでようやく真田くんの言いたいことがわかった。そうか、私を慰めているのか。

「もしかして何か勘違いしてないかな?私はああやって好きな人と一緒に過ごせるのが『いいな』と思ったんだけど…」
「…そういうことか…俺はてっきりも幸村のことが好きなのかと…」
真田くんは目をぱちくりさせながら私の方をやっと見た。
見たと思ったら、また視線は外され妙な沈黙、本日二回目。

「…しかしお前にはそういう風に過ごしたい相手がいるということだな」
「…あはは、えっと、どうかな…」

“しかし”という接続詞が私の心を揺らす。淡い期待が胸いっぱいに広がり、肺が苦しい。
今なら胸の内を打ち明けても許されるのではないだろうか。勇気を出そうかと思案しているうちに、先に口を開いたのは真田くんだった。

「俺では駄目だろうか」
何が?と聞くには白々しくなるほど彼の顔は赤い。
身体の両脇でりんごをも粉砕できそうな力で握られている彼の拳を包むように触れる。
「ダメじゃないよ」
「私は真田くんがいいな」

真田くんは赤い顔で蕾がほころぶように笑ってくれた。