ここ数日間お母さんに、いってきます。と言っていない。
ものすごく心配そうに見送ってくれているのに。本当に申し訳ないと思う。
どうしてこんなことになってしまったんだろう。
急にだ。本当に急に。声が出なくなった。
病院に行くと精神的なものだと言われた。
お母さんはどうやら受験のことだと思ってるみたいで、しばらく学校は休んでゆっくりするにはどう?と聞かれた。
それをあたしはやんわり断った。
医者にここ最近精神的ストレスに受けた覚えはないかと聞かれたが、あたしは「わからない。」と書いて答えた。
学校ではもっぱら筆談になった。先生たちには事情は話してあるので授業中、問題を当てられなくなった。
まわりのみんなには「風邪で声がでません。筆談ですいません。」と書いたノートを見せた。
あたしは「うん」とか「やだ」とか必要そうな答えをあらかじめ書いたノートと新しくまた書き込むためにペンを持ち歩くことが習慣になった。
ただ跡部だけは風邪じゃないと気づいていたと思う。(あとジローちゃんもかな。)
とりあえずそんなに変わったことはない。ほんの少し不便なだけだ。
別に筆談も慣れれば大したことはない。
一番の問題はあいつとは会わないようにすることだった。
とりあえず声がダメになってから数日は面と向かって会ってはいない。
(まぁ、あたしがあいつがちょっとでも見えたらダッシュで逃げてたからなんだけど。)
あ、『あいつ』というのはもちろん忍足侑士です。
「。」
それは突然だった。
振り向かなくてもわかる。その低くて響く声。
あたしは一目散に逃げた。休み時間で廊下にはたくさん人がいて、すごい勢いで走るあたしを見ている。
廊下を走る、走る。階段を降りる、降りる。
後ろから何度も呼ばれる声。聞きたくない声。
「ちょっ待てや!」
あたしは2階の普段あまり使われない視聴覚室の前で捕まった。
所詮運動部の忍足にあたしが勝てるはずもなかった。
「なんで逃げるん?俺傷つくんやけどー。」
あたしの左手の手首を少し強めに忍足は握っている。
たぶんあたしは逃げられない。とりあえずノートに書いてある「風邪で声がでません。筆談ですいません。」という文字を見せた。
「その噂マジやったんか?」
あたしは手早く用意してある「うん」と書いたノートのページを見せた。
「そんなんまで用意してるんかい。」
忍足はあたしからノートを奪いパラパラめくりながら「ご苦労なこっちゃな。」と呟いた。
あたしはあたしで吐き気と戦っていた。
まず、こいつの声を聞くと耳栓をしたように聞こえずらくなった。あたしの体はどこまで正直なんだろう。
それからぐるぐると吐き気が込み上げてきて今に至る。
「顔真っ青やけど大丈夫か?」
「大丈夫」と書いてやろうとノートを奪い返そうとした瞬間、吐き気が強くなった。
もう限界だった。忍足の手を無理矢理解いて一番近いトイレに走った。走ってる途中に4現目の始業のチャイムが鳴った。
吐いた。
一応トイレには間に合った。
けど、吐いた。
ほとんど胃液だ。あの独特なすっぱさと苦さが口内を占領する。
生理的に涙も出る。鼻の奥も痛い。
もう、ほんとにいやだ。なんでこんなことになるんだ。
「さーん?おるんやったら返事してくださーい!おらんくても返事してくださーい!!」
「!!!!」
ズカズカと足音をならしながら忍足はなんの躊躇なく女子トイレに入ってきたようだった。
あたしがここにいることは確信しているようだった。
「ちゃーん?あ、今返事できひんのか…ほい。」
トイレの扉の下からさっきのあたしのノートを返された。
「大丈夫なんかー?気分悪いん?吐いてるん?」
「とりあえず、ここ開けたって。背中さすったるから。」
「開けてくれや。俺むっちゃ居心地悪いんやけどー。」
あたしは「やだ」と書いたあるノートのページを開いて扉の下をくぐらせた。
「なんでやねん。」
今度は「もう授業始まってるから忍足は行って」と新しく殴り書いて下に滑らせた。
「このままのこと置いてくほど俺、酷い男やないで。」
「……頼むから開けてくれ。俺なんもできんやん。」
あたしはまた「やだ」と書いてあるノートのページを開いて扉の下をくぐらせた。
「俺のせいなん?」
ゆっくりと低い声がよく響く。
だから会いたくなかったのだ。
そんなに切ない声ださないでよ。聞きたくない。
あたしは「違う」と書いてあるノートのページを探す。
実際のところ自分でもほんとにわからないのだ。
いや、認めたくないいだけなのかもしれない。
だっておかしすぎる。惨めすぎる。
あたしは必死に「違う」と書いてあるページに「だから気にしないで、授業に出て。」と書き足して下にくぐらせた。
「………わかった。お望み通り出てったるわ。」
さっきとは逆の方向に足音が響く。遠のく。聞こえなくなる。静かだ。
忍足はきっと怒ったんだと思う。せっかく心配してやってるのにって。
当選だと思う。悪いのはあたしだ。
あたしが勝手に声が出せないほど好きになったのだ。
しばらくすると吐き気も収まった。でもまだ身体が怠い。保健室へ行こう。
その前にうがいだ。まだ味だする。うがいだ。まず、うがいだ。
よろよろと立ち上がって扉を開けて、目の前の洗面台でうがいをする。
トイレでうがいするのはちょっと引けたが、もういい。うがいがしたい。
顔を上げると目が真っ赤な自分が鏡に映る。
「(あぁ…ブサイク…。)」
保健室。次は保健室へ行こう。保健室だ。
トイレの外扉を開けると人の気配がして、さらにその人は忍足で。
忍足はゆっくり驚いているあたしの手を何も言わずに握って歩き出した。
それはさっきの様に手首を掴むものではなく、しっかりと掌を握っていた。
振りほどけない。
好きだから。
握り返せない。
好きだから。
「いらんこと言わんから、そばにいさせてな。」
あぁ、優しすぎてまた涙が出る。
どうしてあたしはその優しさを純粋に信じられないのだろう。
やっぱり悪いのはあたしなんだ。